那賀川や久慈川など数多くの川が県内を流れ、霞ヶ浦や牛久沼などの巨大な湖沼を持つ茨城県は、その河川があることによる往来の難しさから県内各地のつながりが薄く、それぞれの地域で独自の文化が育まれています。
県庁所在地の水戸市は茨城県のほぼ中央に位置し、昔から市内を流れる那珂川とともに発展してきた街です。また、江戸時代には徳川御三家の1つ、水戸徳川家が創設されたことから、大規模な城下町としても発展することとなります。
茨城県の記念硬貨一覧
地方自治法施行60周年記念貨幣(茨城県) 1,000円銀貨幣
発行年 | 平成21(2009)年7月27日 |
図柄(表) | H-Ⅱロケットと筑波山 |
図柄(裏) | 雪月花 |
素材 | 銀 |
品位(千分中) | 純銀製 |
量目 | 31.1g |
直径 | 40mm |
地方自治法施行60周年記念貨幣は、日本の貨幣としては珍しいカラーコインです。表面に刻まれた都道府県を代表する名所や名産物が、カラーで鮮やかに再現されています。
茨城県のデザインは、日本初の国産ロケットとなるH-Ⅱロケット、そして、古くから信仰の対象となった筑波山です。
また、裏面は全都道府県共通で雪と月と桜の花がデザインされています。この3つの組み合わせは、白居易の漢詩「寄殷協律(いんけいりつによす)」の一節である「雪月花時最憶君」に由来する自然の美しさを表現した言葉です。
日本においては、伝統的な美の感覚を想起させる言葉として、衣服や絵画などを筆頭にさまざまな文物に取り入れられています。
この硬貨の素晴らしさは、そのデザイン性だけではなく、随所に施された偽造防止技術にも現れています。
たとえば、裏面の最も大きな雪の結晶には「60」と「47」の文字が浮かび上がる潜像加工が施されています。見る角度によって浮かび上がる模様が変わる潜像加工は、この硬貨が初です。
ほかにも側面にある斜めのギザや各所に施された微細点、微細線加工など、日本が誇る偽造防止技術の数々が惜しげなく用いられています。
地方自治法施行60周年記念貨幣(茨城県) 500円バイカラー・クラッド貨幣
発行年 | 平成21(2009)年1月20日 |
図柄(表) | 偕楽園と梅 |
図柄(裏) | 古銭をイメージした「地方自治」 |
素材 | 銅・白銅・ニッケル黄銅 |
品位(千分中) | 銅75%、亜鉛12.5%、ニッケル12.5% |
量目 | 7.1g |
直径 | 26.5mm |
地方自治法施行60周年記念の500円記念硬貨は、日本では初となるバイカラー・クラッド技術が用いられています。
ユーロ硬貨やカナダドル硬貨など、海外では採用例の多いバイカラー・クラッド技術は、異なる種類の金属板をサンドイッチ状に挟みこむ「クラッド」技術と、そうして作られた円板を別の金属にはめ込む「バイカラー」技術の両方を用いた硬貨です。
そのため、硬貨の中心部分と縁で色味が異なっています。
表面の図案は、都道府県を代表する名所や名産品がモチーフです。
茨城県の図案は、日本三名園に数えられる水戸市の偕楽園、そして、梅です。偕楽園を代表する建物である好文亭を背景に、見事な枝ぶりの梅が咲き誇っています。
裏面は日本の古銭をモチーフにしています。丸に四角い穴が開いており、その穴の四方に「地方自治」の4文字が刻まれています。
この四角い穴は、硬貨を傾けると地方自治法施行60年にちなんだ「60」と47都道府県を示す「47」の文字が浮かび上がる潜像加工が施されており、偽造防止に役立っています。
【500円記念硬貨の表面「偕楽園と梅」】
茨城県のデザインは、県内でも随一の梅の名所である水戸の偕楽園です。
岡山の後楽園、金沢の兼六園とともに日本三名園とも称される偕楽園は、春先には園内の梅を一目見ようと大勢の観光客でにぎわいます。
今でも県民に親しまれる場所である偕楽園には、この庭園を開いた藩主徳川斉昭の領民への思いがつまっています。
偕(とも)に楽しむ場所
江戸時代初期、各地の大名はこぞって城下町に庭園を造成するようになりました。単純な遊び目的から馬術や弓術の訓練場のほか、貴重な植物の保護を目的としたものまで、その造成の目的はさまざまです。
この庭園造営の結果として、日本では園内を散策して楽しむ回遊式庭園が発達することとなりました。
そのように各地に庭園が造営されるなか、偕楽園のはじまりはやや遅く、水戸藩9代藩主の徳川斉昭の時代になります。
斉昭が藩主に就任した時代は、ロシアやイギリスなど続々と日本に外国船がやってくる不穏な時代でした。
そのような情勢下で藩主になった斉昭は、藩士たちが学ぶ藩校として弘道館を建てます。同時に、文武に励む藩士たちの憩いの場として、千波湖のほとりに偕楽園を造成しました。
偕楽園開設の趣旨を記した斉昭直筆の「偕楽園記」には「余が衆と楽しみを同じくするの意なり」とあります。
そもそも園名である「偕楽」は、中国の「孟子」の一節にある「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」に由来します。その斉昭の言葉の通り、毎月「三」と「八」のつく日には領民にも解放され、大勢の人に親しまれていました。
斉昭の精神を受け継ぎ、現在でも偕楽園は茨城県民に限り入場料無料の措置が取られています。
偕楽園と梅
偕楽園を語る上で欠かせないのが梅です。
偕楽園には本園部分だけで実に100種3,000本以上の梅の木が植えられています。園内にある施設の好文亭の名前もまた、梅の異名である「好文木」に由来します。
斉昭がこれほど多くの梅を植えた理由については、園内の記碑に理由が記されており、いわく「もって魁春の地を表す」場所、つまり真っ先に春が訪れる場所としていたためです。
また、造営当時の時代背景から考えれば、梅の実を兵糧として用いることも考えていたのかもしれません。斉昭の思いの通り、早春の偕楽園は、多様な梅を目当てに大勢の観光客でにぎわいます。
梅で有名な偕楽園ですが、園内にある梅の木のなかでも花の形や香り、色などが特に優れている6本は、「水戸の六名木」と呼ばれています。
そのなかの1つである烈公梅は、幕末の動乱を、その絶対的なカリスマと行動力で駆け抜けた斉昭の諡号「烈公」が由来です。
ほかの六名木が2月中旬から咲きはじめるなか、1月に咲きはじめる烈公梅は、斉昭の先進的な気風を体現しているのかもしれません。
一陰一陽の混ざりあう場所
現在、多くの観光客は梅林に直接通じる門から偕楽園へと出入りします。
しかし、この門は偕楽園の正式な入り口ではありません。正式な出入口は北側に位置する好文亭表門とされており、通な観光客はこちらから入ることが多いそうです。
この門を抜けると、偕楽園の西半分を構成する孟宗竹や杉の林のなかを進む道が続きます。華やかで明るい東側の梅林と比較すると、あまりにも薄暗く同じ園内とは思えないほどです。
この偕楽園の二面性について、斉昭は園内の記碑に「おのおのその性命を保つものは、一陰一陽その道をなし、一寒一暑そのよろしきをうるをもってなり」と記しています。
斉昭は相反するものが自然の道理に従って調和を保つからこそ、全ての命が保たれていると考えていました。この二面性は、その斉昭の考え方の現れなのかもしれません。
【水戸市の記念メダル「水戸黄門漫遊マラソン完走記念メダル」】
水戸市の記念メダルは、2016年から開催されている水戸黄門漫遊マラソンの完走記念メダルです。
偕楽園や弘道館などの歴史的建造物のほか、紅葉の美しい千波湖の湖畔など、晩秋の水戸市内を水戸黄門のように漫遊できるマラソンになっています。
完走記念のメダルも、水戸黄門にちなみ葵の御紋をあしらった、時代劇でお馴染みの印籠の形をしています。
2024年で9回目の開催と、まだ歴史の浅いシティマラソンですが、すでに毎年多くの参加者を集めています。
ああ、人生に涙あり
このマラソンに限らず、水戸市内では水戸黄門の名前や彼にちなんだ銘菓や名物などをよく見かけます。
時代劇では各地の悪を成敗しに諸国を漫遊している水戸黄門ですが、実際はどんな人物だったのでしょうか。
水戸黄門こと徳川光圀は、水戸藩2代目の藩主です。わずか5歳で水戸藩の次代藩主に指名され、元服のときには3代将軍の家光から直々に「光」の字を与えられました。
しかし三男であった光圀は、兄を差し置いて自分が次代藩主に指名されたことに何やら不満があったらしく、少年時代はいわゆる不良のような行動をしていたといいます。
そんな光圀も18歳のころに、司馬遷の「史記」を読んだことで学問に目覚め、以後、名君として元禄時代に名をはせることなります。
特に光圀が中心となった歴史書「大日本史」の編纂事業は、後に「水戸学」と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的な影響を与えていきました。
光圀、諸国漫遊のホント
時代劇では、渥美格之進と佐々木助三郎の2人をお供に諸国を漫遊している水戸黄門こと徳川光圀ですが、実際のところ、藩主であった彼は出歩くこともままならず江戸と水戸を往復する程度でした。
しかし、藩士に蝦夷地の探検を命じたり、諸国の神社や寺院の調査を行わせたりと、一学者として諸国の調査に力を注いでいたことは事実です。このような背景もあり、後に時代劇のもととなる「水戸黄門」は出来上がっていきました。
また、光圀は名君として名高い人物です。
学問の奨励が代表ですが、それ以外にも新産業の開発や藩の水道開発、隠居してからは薬学を納めるなど領民のための治世を行っていました。
そんな光圀の功績は、現在でも水戸市内の各地で見ることができます。
光圀が愛した水戸に思いをはせながら、このメダルを目指して晩秋の水戸を駆け抜けてはいかがでしょうか。