険しい山々に囲まれた岐阜県の記念硬貨は、そんな古くからの文化を伝える図案です。また、三英傑の1人、織田信長の国取りのはじまりとなった岐阜市には、彼に由来する記念コインが存在します。そんな岐阜県と岐阜市の記念貨幣を紹介します。
岐阜県の記念硬貨一覧
地方自治法施行60周年記念貨幣(岐阜県) 1000円銀貨幣
発行年 | 平成22(2010)年4月27日 |
図柄(表) | 長良川の鵜飼 |
図柄(裏) | 雪月花 |
素材 | 銀 |
品位(千分中) | 純銀製 |
量目 | 31.1g |
直径 | 40mm |
1000円銀貨幣は表面に都道府県をあしらったデザインが、カラーコインで発行されています。岐阜県の図案は長良川で1000年以上続く鵜飼です。鵜飼の篝火が船上と水面に赤々ときらめく美しいデザインになっています。また、裏面には雪の結晶、三日月、桜の花という日本の美しさを示す「雪月花」があしらわれています。
この銀貨幣は数多くの偽造防止技術が組み込まれています。特に裏面に描かれた雪の結晶が、その代表です。この結晶には裏面を下に向けると「60」が、上に向けると「47」の文字が浮かび上がる潜像加工が施されています。ほかにも、貨幣側面には斜めのギザ模様があります。このキザ模様は貨幣の模様が刻まれると同時に施されるという、日本独自の技術で作られています。
地方自治法施行60周年記念貨幣(岐阜県) 500円バイカラー・クラッド貨幣
発行年 | 平成22(2010)年7月21日 |
図柄(表) | 白川郷とれんげ草 |
図柄(裏) | 古銭をイメージした「地方自治」 |
素材 | 銅・白銅・ニッケル黄銅 |
品位(千分中) | 銅75%、亜鉛12.5%、ニッケル12.5% |
量目 | 7.1g |
直径 | 26.5mm |
500円硬貨は、異なる種類の金属をサンドイッチ状に挟みこむ「クラッド」技術と、異なる金属でできたリングにはめ込む「バイカラー」の2つの技術が使われています。この構造はユーロ硬貨と同様です。ヨーロッパの硬貨ではたびたび使われていましたが、日本では初めて使用される構造になっています。
また、裏面中央の四角の穴には、「60」と「47」が浮かび上がる潜像技術が使われているほか、細かな点や線を施した偽造防止技術が使われています。
そして、記念硬貨の表面は、都道府県ごとに別の図案が描かれています。岐阜県の図案は、県を代表する史跡として、世界遺産にもなっている白川郷の合掌造りと、県花であるれんげ草です。手前にれんげ草、奥に合掌造りという白川郷の風景を切り取ったような図案になっています。
1000円記念硬貨の表面『長良川の鵜飼』
毎年5月から鵜飼による漁が開始されます。京都の宇治川や広島県の馬洗川などでも鵜飼は行われていますが、やはり日本で最も有名な鵜飼は、岐阜は長良川の鵜飼でしょう。1300年以上続く伝統の漁が、岐阜県の記念硬貨の図案になっています。
鵜飼の歴史
鵜飼の歴史は古く、5世紀終盤にはすでに確立していたとされています。事実、群馬県の保渡田八幡塚古墳からは鵜飼のようすを表した埴輪が出土したり、中国の歴史書である「隋書」にも、日本を訪れた隋使が「鳥を使った変わった漁をしている」と書き残しています。その中でも長良川の鵜飼は、1300年ほど前から行われており、日本における鵜飼の原点といえるでしょう。
鵜飼は伝統的な漁であると同時に、その見物は権力者の贅沢でもありました。そのため、時の権力者に愛され守られ続けて、今日に至っています。古くは醍醐天皇にはじまり、源頼朝や織田信長、そして徳川家康も鵜飼の保護活動を行っています。現代では、岐阜市や関市の重要な観光資源として、観光客の人気を集めています。
漁としての鵜飼
鵜飼を行う人を鵜使い、もしくは、鵜匠と言います。鵜飼は鮎漁の形態です。そのため鮎漁が解禁となる5月から10月までの間しか実施されません。長良川で行われている鵜飼は、平底の船の舳先で篝火を焚きながら夜間に行われます。この篝火で驚き動きが活発になった鮎を鵜が飲み込みます。
ただ、鵜の喉には紐が付けられており、ある程度の大きさの鮎が飲み込めないようになっています。鵜匠はこれを吐き出させて、漁獲としています。この漁法だと、魚を文字通り「鵜呑み」にするため、魚自体に傷がつきにくいという利点があります。また、魚が一瞬で失神するため、うまみが逃げにくいということもあります。
長良川の鵜飼と皇室の関わり
長良川の鵜飼と皇室との関わりは、平安時代にまでさかのぼります。その関係は、長良川の鮎を醍醐天皇が気に入ったことから、周囲の土地を鵜匠たちに与えたことにはじまります。そのこともあり、長良川で行われる鵜飼は御料鵜飼とも呼ばれ、獲れた鮎は皇室や伊勢神宮などにも奉納されています。過去には、天皇や外国の皇太子などを招いた天覧鵜飼も実施されており、皇室との強い結びつきをうかがわせます。
日本における鵜飼は観光資源としての要素が強く、鵜匠もその自治体の職員であることが一般的です。しかし、長良川の鵜飼は宮内庁の伝統漁法として保護されており、鵜匠は宮内庁式部職といわれる国家公務員です。現在、長良川には9名の鵜匠がいますが、全員が世襲制となっています。
岐阜市の記念メダル『永楽通宝』
岐阜市の記念メダルは、岐阜市の中心にある岐阜城で購入できます。岐阜城は信長が天下取りを始めた場所であり、記念メダルも天下統一を目指した信長の旗印である「永楽通宝」になっています。
日本に入ってきた明銭
永楽通宝は、1411年に明の三代皇帝永楽帝によって鋳造が始められた貨幣です。しかし、当時の中国は新しい貨幣よりも、すでに流通した実績のある宋銭や唐の開元通宝が好まれ、ほとんど中国国内では流通していなかったと考えられています。
一方で、日本は急速に貨幣経済が発展していました。しかし、日本では銅銭を作る技術が失われて久しく、中国から銅銭を輸入するほかありませんでした。そのような背景のなか、永楽通宝は日明貿易や倭寇によって流入したとされています。
貨幣を旗印にした信長
旗印は戦場において、自分の所在を表すものです。武田信玄の「風林火山」や上杉謙信の毘沙門天に由来する「毘」の一文字の旗印は有名です。旗印は兜などと同じように、自分の信念や存在を誇示する目的もあります。先の二人の旗印が有名なのは、それぞれの生き方が強く現れているからではないでしょうか。
そんな旗印に、信長がなぜ中国の古銭である永楽通宝を採用したのか。その詳しい理由は、現在も分かっていません。しかし、楽市楽座などの経済政策を見るに、信長が貨幣経済に早くから着目していたことは間違いないでしょう。永楽通宝の旗印は、「お金で世界を変える」という信長の意思の表れなのかもしれません。