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金価格の歴史 古代・中世・近代編②―金本位制の時代

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金、その輝きはいつの時代も人々を魅了し、富と権力の象徴として歴史の重要な局面でその価値を示してきました。

特に19世紀から20世紀初頭にかけて、世界の経済史は『金本位制』という画期的な制度を中心に動いていました。これは、各国の通貨の価値を「金」という絶対的な基準で裏付ける、壮大な試みでした。

この記事では、イギリスが1813年にその礎を築いてから、世界大恐慌の荒波にのまれて1933年に崩壊するまでの約120年間を旅します。安定と繁栄をもたらした黄金期、戦争による動揺、そして劇的な終焉。金本位制というレンズを通して、激動の時代の金価格の歴史を紐解いていきましょう。

この歴史を知ることは、現代における金の価値を理解する上で、不可欠な羅針盤となるはずです。

1813年イギリス発祥-金本位制の成立と世界への拡大

ナポレオン戦争の戦火が収束へ向かう中、世界経済史において極めて重要な転換点が訪れました。

大英帝国が1813年に構想し、1816年に法制化した金本位制の成立です。この革新的な通貨制度は、その後120年間にわたって世界の経済秩序を支える礎となりました。

産業革命の波に乗ったイギリスが世界に先駆けて確立したこの制度は、単なる通貨改革ではありませんでした。国際貿易の拡大と技術進歩により複雑化する世界経済に、統一された価値基準を与える画期的なアイディアだったのです。

産業革命と国際貿易の拡大が生んだ金本位制

18世紀後半から19世紀前半にかけて、イギリスで起こった産業革命は世界の経済構造を根本から変えました。蒸気機関の発明により大量生産が可能となり、鉄道網の発達で物流が飛躍的に改善されたのです。

この技術革新により、イギリスは製造業製品を世界各国へ大量輸出するようになりました。しかし、国際貿易の拡大に伴い深刻な問題が浮上します。それは、各国の通貨制度がバラバラで、信用度の低い外貨での決済リスクが高まったことでした。

当時の各国政府は現在ほどの信用力を持たず、紙幣や硬貨の価値も不安定でした。貿易相手国の通貨が突然価値を失えば、せっかくの輸出利益が水泡に帰してしまいます。そこでイギリスが考案したのが、世界共通の価値を持つ「金」を通貨の裏付けとする革新的なアイディアでした。

金という貴金属は、古来より世界中でその価値が認められてきました。希少性があり、腐食しにくく、分割可能という特性を持つ金を基準とすることで、通貨に絶対的な信用を与えることができたのです。

各国の金本位制採用とその仕組み

金本位制の仕組みは、一見複雑に思えますが、基本原理は極めてシンプルです。各国政府が自国の金保有量に応じて通貨を発行し、その通貨と金の交換を常に保証するというものでした。

この制度には3つの基本形態がありました。

第一に「金貨本位制」では、金そのものを通貨として流通させます。イギリスが最初に採用したこの方式では、1ポンドのソブリン金貨が実際に市中で使われていました。

第二の「金地金本位制」では、金貨の代わりに兌換紙幣(だかんしへい)を流通させます。中央銀行が金を保管し、兌換紙幣の持参人が要求すればいつでも金と交換することを保証する制度です。この方式により、重い金貨を持ち歩く不便さが解消されました。

第三の「金為替本位制」は、金を十分に保有できない国のための制度でした。金本位制を採用している他国の通貨と固定相場を設定し、間接的に金との兌換を保証する仕組みです。

これらの制度により、世界各国の通貨は金という共通の価値基準で結ばれることになりました。貿易決済時の為替リスクが大幅に軽減され、国際経済活動が格段に活発化したのです。

世界各国の金本位制採用年表

イギリスの成功を目の当たりにした各国は、相次いで金本位制の導入を検討し始めました。特に、イギリスとの貿易関係が深い国ほど、早期の導入に踏み切る傾向が見られました。

以下の表は、主要国の金本位制採用状況を示しています。

国名採用年金価格設定備考
イギリス1816年1ポンド=金7.32g世界初の法制化
ドイツ1873年1マルク=金0.358g統一後の新制度
フランス1876年1フラン=金0.29gラテン通貨同盟解消後
アメリカ1879年1ドル=金1.50g南北戦争後の復帰
日本1897年1円=金0.75g日清戦争賠償金活用
ロシア1897年1ルーブル=金0.77gウィッテの金融改革

興味深いことに、英独仏という欧州主要3カ国が金本位制を採用すると、その波及効果は劇的でした。これらの国々との貿易を重視する他の諸国も、競って制度導入に乗り出したのです。

この時代の金本位制採用は、単なる通貨制度の変更以上の意味を持っていました。それは、その国が国際経済秩序の一員として認められ、先進国としての地位を確立することを意味していたのです。

明治日本の金本位制移行(1871年)と金価格の変遷

西欧列強の圧力により開国を迫られた日本は、まさに激動の時代を迎えていました。幕府の崩壊と明治新政府の樹立、そして富国強兵政策の推進。この近代化への道筋において、貨幣制度の確立は避けて通れない重要課題でした。

明治政府が1871年に制定した新貨条例は、日本の金価格史において極めて重要な転換点となります。この条例により初めて金本位制が導入され、純金1.5gという具体的な金価格設定が行われたのです。しかし、その後の経緯を見ると、理想と現実のギャップが如実に現れる興味深い展開を見せています。

明治政府の金価格設定と苦戦

明治4年5月10日、明治政府は新貨条例を公布し、日本史上初めて金本位制を法的に定めました。この条例の核心は、1円=純金1.5gという金価格設定にありました。これは現代の感覚で考えると、驚くべき価値設定だったのです。

この1.5gという数値は、当時の国際的な金価格水準と比較しても妥当な設定でした。欧米諸国の金本位制を参考にしつつ、日本独自の経済状況を考慮した結果として導き出された数字です。1円=純金1.5gということは、1gあたり約67銭という計算になります。

現代の金価格と比較してみると、その価値の大きさが実感できます。当記事の執筆時点である2025年9月の金価格を1gあたり約18,000円とすると、新貨条例直後の1円は現代価値で約27,000円に相当する計算となります。これは当時の1円が、いかに高い価値を持つ通貨だったかを物語っています。

しかし、現実は理想通りには進みませんでした。明治政府は金の準備不足に悩まされ、実際に発行できた金貨は極めて限られていました。さらに深刻だったのは、発行された金貨の約81%が海外に流出してしまったことです。これは、国内の金価格設定と国際相場との微妙なズレが原因でした。

このような状況を受けて、明治政府は1897年に貨幣法を制定し、金平価を1円=純金0.75gに半減させました。これにより旧金貨は額面の2倍の通用力を持つこととなり、金本位制の実質的な確立が図られたのです。

明治から大正期の金価格推移データ分析

明治期から大正期にかけての金価格推移を詳しく見ると、日本経済の発展段階と密接に関連していることが分かります。田中貴金属の資料によると、この時代の金価格は着実な上昇傾向を示していました。

明治初期の金価格は1gあたり67銭でしたが、明治30年には1円34銭まで上昇しました。これは約30年間で2倍近い価格上昇を意味します。大正6年(1917年)には1円36銭となり、ほぼ横ばいで推移していました。

この価格変動には複数の要因が関係していました。第一に、日本の産業化進展に伴う経済成長が挙げられます。殖産興業政策により工業化が進み、国内の購買力が向上したことで、貴金属に対する需要も増加しました。

第二の要因は、国際的な金本位制の普及です。前述のとおり、欧米主要国が相次いで金本位制を採用したことで、世界的に金の需要が高まり、価格上昇圧力が生まれました。日本も国際経済圏に組み込まれる過程で、この影響を受けていたのです。

第三に、日清戦争や日露戦争といった軍事行動が金価格に与えた影響も見逃せません。戦争により政府の財政需要が拡大し、金準備の重要性が高まったことで、金価格の上昇要因となりました。特に日清戦争の賠償金により日本の金保有量が大幅に増加したことは、その後の本格的な金本位制確立の基盤となったのです。

興味深いことに、この時代の金価格は比較的安定的に推移していました。現代のような激しい価格変動は見られず、年間を通じてほぼ一定の水準を保っていました。これは、金本位制下での政府による価格統制が機能していたことを示しています。

大正期に入ると、第一次世界大戦の影響で金価格にも変化が現れ始めます。戦争による物価上昇と連動して、金価格も徐々に上昇傾向を見せるようになりました。これは次の時代、すなわち国際金本位制の黄金期から動揺期への転換点を予感させる動きでもあったのです。

国際金本位制の黄金期(1880-1914年)と安定メカニズム

1880年から1914年までの約34年間は、経済史上「黄金時代」と称される奇跡的な安定期でした。

この時期の国際金本位制は、人類が初めて体験した真のグローバル経済システムといえるでしょう。各国の通貨が金という共通の基準で結ばれ、為替レートの安定により国際貿易が飛躍的に発展しました。

この時代の金価格は驚くほど安定していました。各国政府の厳格な金準備管理と、金の自由移動システムにより、投機的な価格変動が効果的に抑制されていたのです。経済学者たちがこの時代を理想的なモデルとして研究し続けるのも、その完成度の高さゆえなのです。

固定相場制と金の自由移動がもたらした価格安定

この時代の金本位制の核心は、固定相場制と金の自由移動という2つの仕組みが絶妙に組み合わされていた点にありました。各国は自国通貨と金の交換比率を法的に固定し、その比率を維持する義務を負っていました。

この仕組みの巧妙さは「金現送費メカニズム」にありました。各国間の為替レートが一定の幅を超えて変動すると、実際に金を物理的に輸送して決済する方が有利になります。この金現送費の範囲内でのみ為替レートが変動するため、極めて狭いバンド内での安定が保たれたのです。

さらに重要だったのは、金の国際間移動が完全に自由だったことです。

貿易収支が赤字の国からは金が流出し、黒字国には金が流入するという自動調整メカニズムが機能していました。金が流出した国では通貨供給量が減少し、デフレ圧力により輸出競争力が回復します。逆に金が流入した国では通貨供給量が増加し、インフレにより輸入が増加するという具合に、自然に均衡へと向かう力が働いたのです。

この時代の金価格変動は年間でも数%程度に収まっていました。現代のような激しい価格変動は皆無で、金を保有する者にとっては極めて予測しやすい環境が提供されていました。投資家や商人は長期的な計画を立てやすく、これが国際経済の安定成長を支える基盤となったのです。

イギリス中心の国際金融システムの確立

この黄金時代の主役は、まぎれもなくイギリスでした。「世界の工場」として君臨していたイギリスは、同時に「世界の銀行」として国際金融システムの中心的役割を果たしていたのです。

ロンドン金市場は世界最大の金取引の拠点として確立されました。世界各地から集まった金がロンドンで値決めされ、その価格が国際的な基準となりました。特に南アフリカやオーストラリアなど、大英帝国の植民地で産出された金の大部分がロンドンに集積され、精錬・加工されていました。

イングランド銀行の果たした役割も見逃せません。世界の中央銀行の先駆けとして、金準備の管理と通貨政策の運営において卓越した手腕を発揮しました。同行の政策金利の変更は、世界各国の資本移動に大きな影響を与え、事実上の国際金融政策の舵取りを担っていました。

この時代のイギリスポンドは、現在のアメリカドルに相当する基軸通貨の地位を占めていました。国際貿易の決済や各国の外貨準備において、ポンドが圧倒的な存在感を示していたのです。各国は金とポンドの両方を準備資産として保有し、ロンドン金融市場との結びつきを深めていきました。

興味深いことに、この時代には現在のような国際協調機関は存在しませんでした。しかし、金本位制という共通のルールと、イギリスの圧倒的な経済力を背景とした自然な秩序により、驚くほど安定したシステムが維持されていたのです。各国は自国の利益を追求しつつも、結果的に全体の安定に貢献するという、理想的な状況が実現されていました。

この黄金時代の金価格安定は、単なる偶然の産物ではありませんでした。技術革新、制度設計、そして国際政治の絶妙なバランスが生み出した、人類史上稀有な経済システムの成果だったのです。

しかしこの理想的な均衡も、やがて第一次世界大戦という未曾有の衝撃によって根底から覆されることになります。

第一次大戦と金本位制の動揺(1914-1925年)

1914年6月28日、オーストリア皇太子がサラエボで暗殺された事件を発端として、ヨーロッパ全土を巻き込む史上初の総力戦が勃発しました。この第一次世界大戦は、経済史の観点から見ても極めて重要な転換点でした。34年間にわたって続いた金本位制の黄金時代が、突如として終わりを告げることになったのです。

大戦の勃発とともに、各国政府は戦時下の緊急措置として金本位制の一時停止に踏み切りました。これは、戦争遂行に必要な資金調達と物資確保を優先させるため、やむを得ない決断でした。しかし、この「一時的」な停止が、実際には11年間に及ぶ長期間の制度中断となり、金価格にも大きな変動をもたらすことになります。

戦時下の金輸出禁止と価格統制

第一次大戦の開戦とともに、各国は相次いで金の輸出禁止措置を発動しました。

イギリスは1914年8月、開戦とほぼ同時に金輸出を事実上停止し、フランスやドイツも同様の措置を取りました。これらの措置は当初、法的な裏付けを持たない緊急避難的なものでしたが、戦争の長期化とともに法制化が進められていきました。

アメリカは当初、中立国として金輸出を継続していましたが、1917年の参戦を機に金輸出禁止に転じました。同年9月10日、アメリカ政府は金への兌換一時停止と輸出禁止を発表します。これを受けて日本も2日後の9月12日、「金貨幣又ハ金地金輸出取締ニ関スル件」を公布し、金輸出の許可制を導入しました。実際には許可が出されることはなく、事実上の輸出禁止となりました。

この時期の金価格は、各国政府による価格統制の影響を強く受けました。戦争遂行のために必要な軍需物資の調達を優先し、金価格の急騰を抑制する政策が取られたのです。しかし、統制経済下でも闇市場では金価格の上昇圧力が続いており、公定価格との乖離が徐々に拡大していきました。

戦時下の金市場では、従来の国際的な価格決定メカニズムが機能しなくなりました。ロンドン金市場は事実上閉鎖状態となり、各国は個別に金価格を管理する体制に移行しました。これにより、前述の黄金時代に見られた国際的な価格安定は完全に失われることになったのです。

戦後復興と金本位制復帰への模索

1918年11月の休戦協定締結後、世界各国は戦後復興と国際経済秩序の再建に取り組み始めました。その中核となったのが、金本位制の復活をめぐる国際的な議論でした。戦前の安定した経済システムへの回帰を目指す声が、各国から上がったのです。

1920年末のブリュッセル会議では、国際連盟主催のもとで金融危機について検討が行われ、金本位制への復帰が満場一致で可決されました。続く1922年のジェノア会議では、イギリスの主導のもとでヨーロッパの復興方式が具体的に検討され、各国に金本位制への早期復帰が強く求められました。

しかし、戦後の金本位制復帰は戦前とは大きく異なる困難に直面していました。

まず、戦争による各国の金保有量の偏在が深刻な問題となりました。アメリカは大戦中にヨーロッパ諸国から大量の金を獲得し、世界の金準備の約40%を保有ていますが、一方、戦争で疲弊したヨーロッパ諸国の金保有量は大幅に減少していました。

こうした状況下で、アメリカは1919年6月、いち早く金輸出を解禁し金本位制に復帰しました。豊富な金準備を背景とした、余裕のある政策判断でした。しかし、他の主要国の復帰は遅れることになります。

イギリスは1925年4月、ついに金解禁を実施し金本位制に復帰しました。しかし、この復帰は戦前の金価格水準で行われたため、国内経済に深刻なデフレ圧力をもたらすことになりました。当時の経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、この政策を「古い金価格への復帰」として厳しく批判しています。

フランスは1928年、ドイツは1924年にそれぞれ金本位制に復帰しましたが、いずれも戦前とは異なる「金地金本位制」や「金為替本位制」といった修正版でした。完全な金貨本位制への復帰は、もはや不可能となっていたのです。

日本の場合、戦後復帰への道のりは特に険しいものでした。戦争による好景気の反動で1920年に戦後恐慌が発生し、さらに1923年の関東大震災が経済に大打撃を与えました。金解禁への準備が整ったのは1930年のことで、主要国の中でも最も遅い復帰となりました。

この時期の金価格は、各国の復帰時期や方式の違いにより複雑な動きを示しました。復帰を果たした国では公定価格が設定される一方、未復帰国では変動相場制による価格変動が続きました。国際的な金価格の統一は、すべての主要国が復帰を完了するまで実現しませんでした。

世界大恐慌と金本位制の終焉(1929-1933年)

1929年から1933年にかけての4年間は、金価格の歴史において最も劇的な転換期でした。

長きにわたって世界経済の安定を支えてきた金本位制が、ついにその役割を終える時が訪れたのです。この期間に起こった出来事は、単なる経済危機にとどまらず、国際通貨制度そのものを根底から変えることになりました。

世界大恐慌の嵐が吹き荒れる中、各国政府は自国経済を守るため、これまで神聖視してきた金本位制を次々と放棄していきました。この制度崩壊により、金価格は政府の統制から解放され、市場の需給バランスによって決定される新たな時代の幕が上がったのです。

1929年株価大暴落が金市場に与えた衝撃

1929年10月24日木曜日、ニューヨーク証券取引所で史上最大規模の株価暴落が発生しました。

後に「暗黒の木曜日」と呼ばれることになるこの日、1,280万株という膨大な量の株式が売りに出され、株価は一気に暴落しました。さらに10月29日の「悲劇の火曜日」には、NYダウが12%以上下落し、世界経済の混乱は決定的なものとなりました。

この株価大暴落は、金市場にも即座に深刻な影響をもたらしました。投資家たちは株式への信頼を失い、より安全な資産への逃避を求めるようになったのです。金は伝統的に「最後の砦」とされてきた資産でしたが、金本位制下では政府による価格統制により、市場の需給を反映した価格変動は制限されていました。

しかし、恐慌の深刻化とともに、各国政府の金準備への圧力は急激に高まりました。国際間の貿易決済や資本移動の混乱により、金の流出入が激しくなり、従来の固定相場制を維持することが困難になってきたのです。特に、アメリカからヨーロッパへの資金の引き揚げが相次ぎ、ヨーロッパ諸国の金準備は急速に減少していきました。

この時期の金価格は、表面上は各国政府の公定価格により安定を保っていました。しかし、水面下では闇市場での取引が活発化し、公定価格と実勢価格との乖離が徐々に拡大していました。投資家や資産家は、将来的な金本位制崩壊を予期し、金の現物確保に動き始めていたのです。

各国の金本位制離脱と金価格急騰の始まり

世界大恐慌の深刻化とともに、各国は自国経済の立て直しを最優先とし、金本位制からの離脱を相次いで決断しました。この離脱の連鎖は、1931年9月21日のイギリスの金本位制停止から始まり、「日の沈むことのない大英帝国」として君臨し続けてきたイギリスのこの決断は、世界中に衝撃を与えました。

イギリスの離脱発表により、ポンドは即座に約25%下落し、世界的な通貨不安が一気に拡大しました。これを受けて、同年12月には日本も金輸出再禁止を実施し、事実上の金本位制離脱に踏み切っています。関東大震災からの復興途上にあった経済が、さらなる打撃を受けることを避けるための苦渋の決断でした。

そして1933年3月、ついにアメリカも金本位制の停止を発表しました。フランクリン・ルーズベルト大統領は、就任直後の4月19日に金本位制停止を正式に宣言し、ドルと金の兌換を停止しました。世界最大の経済大国であったアメリカのこの決定により、国際金本位制は事実上完全に崩壊したのです。

各国の金本位制離脱により、金価格は劇的な変化を見せ始めました。

最も象徴的だったのは、1934年1月のアメリカによる金価格の大幅引き上げです。これまで1トロイオンス20.67ドルだった公定価格が、一気に35ドルまで引き上げられました。これは実に69%もの価格上昇を意味し、金価格史上最大の変動となりました。

この価格変更は、金本位制時代の終焉を象徴する出来事でした。政府による固定価格ではなく、経済政策の一環として金価格が決定される新しい時代の始まりを告げるものだったのです。他の主要国も相次いで自国通貨の金に対する価値を切り下げ、金価格の国際的な上昇トレンドが確立されました。

1933年6月にロンドンで開催された世界通貨経済会議では、金本位制維持を主張するフランスやイタリアなどの金ブロック諸国と、離脱を既成事実化したイギリス・アメリカ・日本などが激しく対立しました。しかし、もはや時代の流れを止めることはできませんでした。

こうして約120年間にわたって世界経済を支えてきた金本位制は、ついにその歴史的使命を終えることになりました。

金価格は政府の統制から解放され、市場メカニズムと各国の経済政策により決定される現代的なシステムへと移行したのです。この大転換により、金は通貨制度の基盤から、投資資産や価値保存手段としての新たな役割を担うことになり、現代に至る金価格変動の基礎が築かれました。

まとめ

1813年から1933年までの約120年間にわたる金本位制の歴史は、現代の金価格形成に深い影響を与え続けています。イギリスから始まった制度は世界規模で採用され、特に1880年から1914年の黄金期には極めて安定した金価格を実現しました。

しかし、第一次世界大戦と世界大恐慌により制度は崩壊し、金は通貨制度の基盤から投資資産へと役割を変化させました。この歴史的転換により、金は価値保存手段としての地位を確立し、現在に至る価格変動の基礎が築かれたのです。

金本位制時代の教訓は、現代でも金が経済不安定時における「最後の砦」として機能し続ける理由を教えてくれます。

次回 現代金融システムの確立編①―第二次世界大戦と金の関係

次回の記事「金価格の歴史 現代金融システムの確立編①―第二次世界大戦と金の関係」では、金本位制の終焉から始まった現代金融システムの基盤が、どのように第二次世界大戦を経て確立されていったのかを詳しく探究いたします。

戦争という極限状態の中で金の役割がどう変化し、ブレトンウッズ体制の成立から現代のドル基軸通貨システムへと発展していく過程をご紹介します。

金価格の歴史における次の大きな転換点を、ぜひ次回の記事でお確かめください。

"現代金融システムの確立編①―第二次世界大戦と金の関係"へ

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