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1980年代は、金価格の歴史において極めて重要な転換期となりました。
熱狂的な高騰で幕を開けたものの、その後10年近くにわたって調整局面が続くという、まさにジェットコースターのような展開を見せたのです。この激動の時代は、単なる価格の乱高下という言葉だけでは片付けられません。
地政学的リスクの高まりがもたらした史上最高値の更新、強力な金融引き締めによるインフレの収束、そして国際協調が生んだ為替相場の激変。これらの歴史的な出来事が、金価格に複雑かつ多層的な影響を与えていきました。
本記事では、1980年代という時代を多角的に検証し、金価格がどのように動いたのかを詳細に解説します。
この10年間の歴史を理解することは、現代そして未来の金価格の動向を読み解くための、揺るぎない羅針盤となるでしょう。
1980年史上最高値からの急落―第一次金バブル崩壊
1980年代初頭の金バブルとその後の崩壊過程は、現代金融史において極めて重要な転換点となりました。
史上最高値の達成から急落に至る一連の展開は、地政学的要因が金価格に与える強烈な影響力を如実に物語っています。
この詳細については、前回のコラム「金価格の歴史 現代の金価格変動編①―1970年代の激動」で詳しく解説しておりますが、ここでは1980年代の調整期を理解するために必要な概要をお伝えします。
6,945円のピーク達成背景
1980年1月21日、金価格は1gあたり6,945円という当時の史上最高値を記録しました。
この驚異的な価格上昇の背景には、前年から続く一連の地政学的リスクが存在していました。1979年12月のソ連によるアフガニスタン侵攻は、東西冷戦の緊張を極度に高めました。
さらに同年には、イラン革命に端を発する第2次石油危機、テヘランのアメリカ大使館占拠事件など、国際情勢を不安定化させる出来事が立て続けに発生していました。
これらの地政学的リスクの高まりにより、投資家はドルから安全資産である金へと資金を大量移動させたのです。
緊張緩和による価格修正
しかし、この史上最高値は長続きしませんでした。1980年5月には、わずか4か月間で3,000円以上下落し、3,645円まで急落したのです。この劇的な価格修正の主要因は、アメリカと旧ソ連間の緊張緩和でした。
国際情勢の安定化により、ドル信頼回復が進みました。投資家心理が安全資産から収益性のある投資先へと転換し、金から大量の資金流出が発生しました。
ボルカー金融政策とインフレ圧力の収束
1980年代初頭、アメリカ経済に劇的な転換点をもたらしたのが、当時のFRB(連邦準備銀行)議長だったポール・ボルカーによる、強力な高金利政策でした。
この政策は『ボルカーショック』と称され、インフレ抑制を最優先に据えた革新的なアプローチとして歴史に刻まれています。
同時期のレーガノミクスと相まって、金価格に甚大な影響を与える経済構造の変化を引き起こしました。
20%の高金利政策がもたらした変化
1979年8月にFRB議長に就任したボルカーは、深刻化していたインフレに対し断固たる姿勢で臨みました。
当時の消費者物価指数上昇率は11.8%という危機的水準にあり、フェデラルファンド金利を劇的に引き上げる必要に迫られていました。
1981年1月、フェデラルファンド金利は20%という驚異的な水準に到達しました。この超高金利政策により、借り入れコストが急激に増大し、企業の設備投資や個人の住宅購入が大幅に抑制されました。
結果として、アメリカ経済は1980年と1981年から1982年にかけて2度の景気後退を経験し、失業率は10.8%まで上昇しました。
しかし、この痛みを伴う政策により、インフレ率は1981年5月以降着実に低下し始め、1983年半ばには3%を下回るまでに鎮静化しました。
高金利環境下では、金のような非利回り資産への投資魅力が相対的に低下し、投資資金は高利回りの債券市場へと流出していきました。
レーガノミクスとドル高圧力
1981年発足のレーガン政権が推進した“レーガノミクス”は、大規模な減税と産業規制緩和、そして軍事支出の大幅増額を柱とする経済政策でした。この政策により、アメリカ経済は1983年頃から目覚ましい復活を遂げました。
レーガノミクスの特筆すべき点は、軍事支出が1980年の1,430億ドルから1987年には2,950億ドルへと106%も急増したことです。この巨額の軍事支出と減税により、財政赤字は1980年の738億ドルから1986年には2,212億ドルまで拡大しました。
財政赤字拡大に伴い、アメリカ政府は大量の国債発行を余儀なくされ、高金利維持が必要となりました。
この結果、ドル高圧力が持続し、海外投資家にとってドル建て資産の魅力が増大しました。ドル高進行は金価格に下落圧力をもたらし、特に円やマルクなど他の主要通貨建ての金価格下落を加速させる要因となったのです。
この価格修正は当初一時的なものと予想されましたが、実際には20年以上にわたる長期下落トレンドの始まりとなったのです。
プラザ合意と円高進行―金価格への複合的影響
1985年9月のプラザ合意は、金価格にとって新たな転換点となりました。
この合意は、ニューヨークのプラザホテルで開催されたG5(先進5か国。日・米・英・独・仏)の財務大臣・中央銀行総裁の会議において決定された、過度なドル高是正のための国際的な協調行動でした。
プラザ合意の具体的内容は、各国通貨の対ドル価格を一律10〜12%幅で切り上げ、そのための協調介入を外国為替市場で実施するというものでした。
この合意により始まった急激な円高進行は、円建て金価格に深刻な下落圧力をもたらし、日本の金市場に劇的な変化を与えることになったのです。
1ドル240円から150円への急激な変化
プラザ合意発表直前の1985年9月21日、ドル円相場は1ドル240円台で推移していました。しかし、合意発表翌日の9月23日、わずか24時間でドル円レートは約20円下落し、215円台まで急落しました。
この劇的な変動は、協調介入の威力を市場に印象付ける象徴的な出来事となりました。
協調介入が開始されると、市場の円高圧力は加速の一途をたどりました。1985年末には200円を突破し、1986年1月には200円を下回る水準まで円高が進行しました。
この動きは投機資金の流入により一層拍車がかかり、合意から1年後の1986年9月には150円台での取引が記録されました。
わずか1年間で1ドル240円から150円への急激な変化は、現代でも類を見ない為替変動として歴史に刻まれています。この変動幅は実に37.5%に相当し、輸出入企業にとっては経営の根幹を揺るがす激震でした。
円建て金価格の二重の下落圧力
プラザ合意後の円高進行は、円建て金価格に二重の下落圧力をもたらしました。第一の圧力は、前述のボルカーの高金利政策により既に下落基調にあった国際金価格の影響でした。第二の圧力が、急激な円高による為替効果です。
具体的な計算例で見てみましょう。1985年初頭に国際金価格が1トロイオンス300ドル、為替が1ドル250円だった場合、円建て金価格は1gあたり約2,419円でした。
しかし、プラザ合意後の1986年末に国際金価格が280ドル、為替が1ドル160円になった場合、円建て金価格は約1,446円となり、40%もの大幅下落となったのです。
この二重の下落圧力により、円建て金価格は1980年の史上最高値から3分の1以下の水準まで暴落しました。
日本の金投資家にとってプラザ合意は、為替影響の大きさを痛感させられる出来事となり、外貨建て資産への分散投資の重要性が改めて認識されることになったのです。
1980年代後半の長期下落トレンド確立
1980年代後半に入ると、これまでの一時的な価格修正とは異なる、長期下落トレンドが金価格に明確に現れました。
この構造的変化の背景には、世界経済における投資環境の激変と、エネルギー市場の根本的な仕組み変化が存在していました。
株式市場の異常な活況と石油市場の構造改革により、金への投資資金は他の収益性の高い投資先へと大量移動していったのです。
株式市場の好調と金投資離れ
1980年代後半の日本は、戦後経済史に残る空前の株式ブームに沸いていました。
日経平均株価は1985年のプラザ合意以降、加速度的な上昇を見せ、1989年末には3万8915円という当時の史上最高値を記録しました。この上昇過程では、一時期4万円突破への期待が高まるほどの熱狂ぶりでした。
株式市場への投資資金流入は凄まじく、東証一部の一日平均売買高は1980年代前半の3億株台から1988年には10億株を超える水準まで急拡大しました。この活況は機関投資家だけでなく、個人投資家による投資信託や変額保険を通じた間接的な株式投資の増加も背景にありました。
こうした株式市場の好調により、非利回り資産である金への投資魅力は相対的に大幅低下しました。株式相場が右肩上がりの成長を続ける中、投資家にとって金は魅力的な選択肢ではなくなったのです。
結果として、金市場からは大量の投資資金が流出し、価格下落圧力が継続的に作用することになりました。
原油価格との連動性と石油市場の変化
金価格の長期下落トレンドを決定づけたもう一つの要因が、原油価格との連動性と石油市場構造の根本的変化でした。
1983年にOPECが実施した原油価格の大幅値下げは、20年間続く金価格下落の出発点となりました。一般的に金価格と原油価格は同方向に動く特性があり、エネルギー価格の下落は金価格にも強い下落圧力をもたらしました。
さらに重要な変化が、1980年代末から本格化した石油市場への市場原理導入でした。それまでOPECが独占的に決定していた原油価格体制から、中東産油国の長期契約価格にもスポット価格が反映されるフォーミュラ価格方式への転換が進みました。
これにより、あらゆる原油価格が市場の影響を受けるようになったのです。
この市場化により、OECD諸国や非OPEC発展途上国での石油開発が促進され、供給過剰状態が常態化しました。
エネルギー価格の長期低迷は世界的な経済成長を後押しする一方、インフレヘッジとしての金需要を大幅に減退させ、金価格の構造的下落要因として機能し続けたのです。
まとめ
1980年代は、金価格の歴史において、激動と調整の10年として記憶されています。
ソ連のアフガニスタン侵攻をきっかけとした地政学的リスクの高まりにより、年初には史上最高値を記録したものの、それは長くは続きませんでした。
その後のアメリカによる強力な金融引き締め政策、いわゆる「ボルカーショック」は、インフレを収束させる一方で高金利をもたらし、金から投資家の資金を引き離しました。さらに、1985年のプラザ合意による急激な円高は、円建て金価格に決定的な打撃を与えたのです。
そして、バブル景気に沸く株式市場へと投資資金が向かう中、金は長期的な下落トレンドへと入っていきました。
1980年代の金価格の動きは、政治・経済の大きなうねりが、いかに資産価値に影響を与えるかを物語る好例といえるでしょう。
次回 現代の金価格変動編③―失われた90年代
次回「金価格の歴史 現代の金価格変動編③―失われた90年代」では、バブル崩壊後の日本経済と世界情勢の変化が金価格に与えた深刻な影響を詳しく解説いたします。
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