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肖像メダルの今回の題材は宮沢賢治

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肖像メダルの今回の題材は宮沢賢治

造幣局が歴史上の著名人や偉人をメダルの題材に取り上げ、「肖像メダル」として発行しているこのシリーズ。今回は日本を代表する詩人・宮沢賢治が題材となっています。どんなメダルに仕上がっているのか?また、宮沢賢治の人となりとは?ここで特集していきます。

宮沢賢治メダル

肖像メダル「宮沢賢治」

宮沢賢治直筆の「雨ニモマケズ」が刻まれたメダル

今回「肖像メダル」に宮沢賢治が選ばれたのは、このメダルが発行された2011年に、東日本大震災で被災された方々や復興に携わっている国内外の方々から、宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」が注目を集めていたからです。

メダルの表面は、宮沢賢治の肖像を浮き彫りで表現し、裏面は、宮沢賢治のシルエットと「雨ニモマケズ」の冒頭の一節 (直筆)をデザインしています。

また、このメダルには「雨ニモマケズ」と宮沢賢治の実弟 (宮沢清六氏)の孫に当たる、宮沢和樹氏からの寄稿文を掲載したものが添付されていました。

文豪の肖像はなかなか見ることがないので、それだけでも貴重な1枚。さらに裏面のシルエットと直筆のデザインが渋くまとまっていてかっこいいのです。

販売価格は2万5,000円、発行枚数は3,000個。品位はSV1,000、重量約160g、直径60mmとなっています。

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自分の信じる道を生き抜いた詩人・宮沢賢治

数々の詩や童話などを書き上げてきた宮沢賢治。彼の作品は亡くなってから評価されたものがほとんどでした。

では彼はいったいどんな人生を過ごしてきたのでしょう?その足跡をたどってみましょう。

1896年(明治29年)8月27日、父政次郎、母イチの長男として岩手県稗貫郡(現:花巻市)に誕生。

当時家業は質・古着商で弟妹は、トシ、シゲ、清六、クニの二男三女。仏教篤信の家庭環境で育ち、幼い時より経文に親しみました。

1903年(明治36年)、町立花巻川口尋常高等小学校に入学。賢治は3年と4年を担任した八木英三先生に読み聞かされた、五来素川の翻案によるマロ作「家なき子」や、「海に塩のあるわけ」に大きな影響を受けます。

また、鉱物採集や昆虫の標本づくりに熱中するようになり、11歳の頃には家族から「石っこ賢さん」と呼ばれていました。

1909年(明治42年)4月、岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学し、寄宿舎「自彊寮」に入寮。鉱物採集や星座に情熱を注ぎ、岩手山、南昌山、鞍掛山など盛岡近くの山を歩き、大量の岩石標本を集めました。なかでも岩手山に魅せられ、後年たびたび登山をするようになります。また、3年生の頃から石川啄木の影響を受けた短歌を制作。

1912年(大正元年)中学4年生の5月。仙台方面へ修学旅行へ行き初めて海を見ます。またこの年、「歎異鈔」を読み感動をします。
1913年(大正2年)、中学5年生のとき新しい舎監に生徒たちが嫌がらせを行ったため、4、5年生全員が退寮させられるという事件が発生。賢治は盛岡市北山の清養院に下宿することになります。

1914年(大正3年)3月、盛岡中学卒業。4月、肥厚性鼻炎手術で岩手病院に入院し、手術後発疹チフスの疑いのある高熱のため再入院します。この入院中、賢治は看護師の女性に初めて恋心を抱きます。しかし片思いに終わり、退院後実家で好きでもない店番や養蚕の手伝いをして過ごしていました。
そんな彼を見かねた政次郎は、盛岡高等農林学校への進学を認めます。すると賢治は今までと打って変わって、受験のために猛勉強に励みました。また同時期に、島地大等訳「漢和対照妙法蓮華経」を読み、そのなかの「如来寿量品」に深い感銘を受けるのでした。

1915年(大正4年)4月、盛岡高等農林学校(現:岩手大学農学部)に首席で入学し、寄宿舎「自啓寮」に入寮。高等農林では農学科第二部(のちに農芸化学科)に所属し、土壌学を専門とする部長の関豊太郎の指導を受けました。


1917年(大正6年)、再び特待生となり、旗手を命じられます。「校友会会報」に筆名「銀縞」で短歌「雲ひくき峠等」を発表。
7月には小菅健吉、保阪嘉内、河本義行と同人誌「アザリア」を創刊。短歌「みふゆのひのき」、短編「『旅人のはなし』から」などを発表します。

1918年(大正7年)、卒業を控えた賢治に政次郎は研究生として農学校に残り、徴兵検査を延期することを勧めますが、賢治は得業論文「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」を提出し、検査延期を拒否します。

父と卒業後の進路について対立していたのです。関からの勧めもあり、農学校を卒業し研究生として残り、稗貫郡の土性調査にあたることに。賢治は誠心誠意この仕事に打ち込み、休ませてもらった家には法華経の印刷物を置いていきました。そして4月28日、徴兵検査を受けて第二乙種合格となり、兵役免除。

その後、肋膜炎となり一ヵ月静養。童話の制作をはじめ「アザリア」に短編「峯や谷は」を発表。8月には「蜘蛛となめくじと狸」「双子の星」を執筆、家族に朗読しました。12月、妹トシが東京で入院したとの知らせを受けて母と2人で上京。

1919年(大正8年)、東京で宝石の研磨や人造宝石などの製造販売を計画するも、父に反対されてしまいます。そんななか、萩原朔太郎の詩集「月に吠える」に出会い感銘を受けます。3月に退院したトシと共に帰郷。浮世絵版画の収集をはじめます。また、無署名「手紙」を配布。

1920年(大正9年)5月、農林学校研究生を卒業。関教授からの助教授推薦の話を辞退。短編「猫」「ラジュウムの雁」「女」を執筆。11月に国柱会信行部に入会。また浄土真宗の門徒である父に改宗を迫り激しい口論となりました。

1921年(大正10年)1月、東京行の汽車に乗って家出し、国柱会本部で高知尾智耀に遭遇。本郷菊坂町に下宿し、東大赤門前の謄写版印刷所「文信社」に勤めながら、街頭布教や奉仕活動をするようになります。

しかし8月中旬、「トシビョウキスグカエレ」の電報を受け取り、原稿をトランクに詰めて花巻に戻ることに……。12月3日、稗貫郡立稗貫農学校の教諭となります。雑誌「愛国婦人」9月号には童話「あまの川」、12月号と翌年1922年(大正11年)1月号に「雪渡り」掲載。
「雪渡り」で貰った原稿料5円が生前唯一の原稿料でした。ほかにも「注文の多い料理店」「鹿踊りのはじまり」「竜と詩人」「かしはばやしの夜」「どんぐりと山猫」「月夜のでんしんばしら」「狼森と笊森、盗森」など、多くの童話を創作しました。

1922年(大正11年)、心象スケッチ「屈折率」「くらかけの雪」を書き、『春と修羅』制作開始。「水仙月の四日」創作。「小岩井農場」「イギリス海岸」を書きます。9月には農学校の生徒の前で「飢餓陣営」を上演しました。

11月27日、妹のトシの容体が急変し死去。悲しみに暮れた賢治は「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」を書きました。

1923年(大正12年)7月、農学校生徒の就職依頼で樺太を旅行。「青森挽歌」「樺太挽歌」などトシを思う詩を執筆。

『岩手毎日新聞』に詩「心象スケッチ外輪山」童話「やまなし」「氷河鼠の毛皮」「シグナルとシグナレス」を発表。国柱会機関紙「天業民報」に詩「青い槍の葉」ほかを発表。「銀河鉄道の夜」初校完成。

1924年(大正13年)4月、「心象スケツチ 春と修羅」刊行。花巻の吉田印刷所に持ち込み1,000部を自費出版しました(定価2円40銭)。同年12月1日『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』刊行(定価1円60銭)。
こちらも1000部刷りましたが全く売れなかったといいます。ですが、翻訳家・辻潤や詩人・佐藤惣之助、歌人・中原中也などからは評価されていました。

1925年(大正14年)、2月から森佐一、7月から草野心平と交わり、森編集「貌」、草野編集「銅鑼」に詩を発表。8月には森佐一らと花城小学校で開かれた詩の展覧会に作品を出展。12月になると「冬(幻聴)」を発表。また、岩手日報に変名にて「法華堂建立勧進文」を発表。

1926年(昭和元年)、尾形亀之助編集「月曜」に「オツベルと象」「ざしき童子のはなし」「寓話猫の事務所」を発表。3月末まで岩手国民高等学校で農民芸術論を講義し、31日に依願退職します。そして、かつてトシが療養生活をしていた下根子桜の別宅に移り住みます。

そこでの生活は野菜を作ったりレコードコンサートをしたりと悠々自適でしたが、やがて町内や近郊に肥料設計事務所を設け、肥料相談や設計をはじめるようになります。
また、羅須地人協会を設立し、農学校の卒業生や近所の篤農家を集め、農業や肥料の講習、レコードコンサートや音楽楽団の練習をするようになりました。12月には上京してタイプライター、セロ、オルガン、エスペラント語を練習。

1927年(昭和2年)1月、「無名作家」四号に詩「陸中国挿秧之図」を発表。9月は「銅鑼」に「イーハトーブの氷霧」を発表。12月は盛岡中学「校友会雑誌」に詩を発表しました。ちなみに、賢治がこの頃までに書いた肥料設計図は2,000枚にものぼったといいます。

1928年(昭和3年)2月、「銅鑼」に「氷質の冗談」を発表。3月は「聖燈」に「稲作挿話」(未定稿)を発表。6月は伊豆大島旅行へ行き「三原三部」を書き上げました。しかし12月に急性肺炎を患ってしまいます。

1930年(昭和5年)、病状がやや回復し、園芸に夢中になります。「文芸プランニング」に詩「遠足許可」等4編を発表。

1931年(昭和6年)7月、『児童文学』第1冊に童話「北守将軍と三人兄弟の医者」を発表。11月には手帳に「雨ニモマケズ」を書き留めます。

1932年(昭和7年)3月、『児童文学』第2冊に「グスコーブドリの伝記」を発表。8月には「女性岩手」創刊号に文語詩「民間薬」「選挙」を発表。続く11月には「女性岩手」に「祭日」「母」、「詩人時代」に「客を停める」を発表しました。

1933年(昭和8年)3月、「天才人」に童話「朝に就ての童話的構図」を発表。4月には「現代日本詩集」に「郊外」「県道」を発表。そして、7月「女性岩手」に「花鳥図譜七月」を発表。

9月21日、法華経1,000部を印刷して配布するよう父に遺言して死去。

宮沢賢治の作品は生前あまり認められることはありませんでした。ですが、彼の死後主に詩人の草野心平氏の尽力により、多数の作品が刊行されました。現在では、宮沢賢治全集を気軽に手に取ることができます。彼が残した珠玉の文章の数々にぜひ触れてみてはどうでしょうか。

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宮沢賢治メダル買取は金貨買取本舗へ

宮沢賢治メダルと宮沢賢治についてお話をしましたがいかがでしたでしょうか?
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宮沢賢治メダル╼

名称 肖像メダル「宮沢賢治」
発行国 日本 造幣局
質量(g) 約160g
直径(mm) 60mm
厚さ(mm) --
材質
品位(karat) SV1000
発行枚数 3,000枚

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2021-11-05 13:01:28

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