40フラン金貨と英雄ナポレオンについて解説
革命を経て政治が大きく変わったフランスですが、それは同時に経済を大幅に不安定にさせるものでもありました。
革命を嫌った各国からの締め出し、混乱する物流、安定しない紙幣、革命政府は手だてがないままでした。
そこへ颯爽と登場したのが、英雄ナポレオンです。数々の戦場で華々しい戦果を挙げてきた彼は、経済でも抜群の知性を発揮、フランス経済の立て直しに尽力します。
この金貨は、そのなかで生まれたものです。
基本情報
| 発行国 | フランス |
| 発行年 | 複数 |
| 素材 | 金(90%) |
| 額面 | 20 フラン |
| 重量・直径 | 6.4516 g / 21 mm |
| 図案 | 裏面には額面と発行年、表面には当時の統治者の肖像 |
| 発行国 | フランス |
| 発行年 | 複数 |
| 素材 | 金(90%) |
| 額面 | 100 フラン |
| 重量・直径 | 12.903 g(20フラン金貨のちょうど2倍)/ 27 mm |
| 図案(表) | ナポレオンの横顔、月桂冠 |
| 図案(裏) | 額面「40 FRANCS」、発行年、「EMPIRE FRANCAIS」 |
ここで取り上げるフラン金貨は、1803年のガイヤール法によって規格が決定した金貨のことを指します。貨幣史的にはナポレオン1世が発行をはじめたことからナポレオン金貨とも呼ばれています。
額面とそれに対する金比率が明確に決定されていたため信用度が高く、フランス国内をはじめ、スイスやイタリアなどの周辺国でも高額金本位貨幣の代表格として流通しました。
特に、40フラン金貨は20フラン金貨2枚分の価値が保証されており、銀行間取引や貯蓄用として重宝されました。
皇帝ナポレオン
白馬に跨り、颯爽とアルプスの山を越える肖像画が印象的なナポレオン。「余の辞書に不可能という文字はない」と印象的な言葉を数多く残しています。
そんな革命で混乱するフランスに彗星のごとく現れた、希代の天才軍人の素顔に迫りましょう。
天才軍人、登場
1769年、地中海のコルシカ島にナポレオンは生まれました。当時のコルシカ島は、ジェノヴァ共和国からフランス領となったばかりであり、ナポレオンのボナパルド家は島のなかの新貴族という立ち位置でした。
10歳のとき、フランス本国の陸軍幼年学校に入学、そこで5年ほど勉学に励みました。在学中のナポレオンは特に数学の成績がよく、指導教官をうならせるほどの解答をいくつもしたと言われています。
また、1784年には王立士官学校へ入学、砲術や戦略学を学び、軍人としての基盤を築いていきました。このとき、学んだ砲術や数学に関するセンスが、のちにナポレオンの軍人としての戦術眼につながっていきます。
そして、1789年。20歳のナポレオンの人生を大きく変える出来事が起こります。フランス革命です。
革命直後のフランスは、国内に反革命派を抱えながら、四方八方を敵(対仏同盟)に囲まれ、さらに士官の逃亡・亡命が相次ぐという絶望的な状況に陥っていました。
そのなかで1793年、ナポレオンは南仏の港湾都市トゥーロンで起きた戦いに参加します。対仏同盟に参加したイギリスが占領するトゥーロンを奪還するため、ナポレオンは学んだ砲術や持前の算術の能力を如何なく発揮して多大な戦功を挙げ、20代で一気に少将へ昇進しました。
その後もテルミドール派の総裁政府の元、中将となったナポレオンはイタリアへと対仏同盟の一角であるオーストリアを叩くべく、北イタリアへと遠征します。ここでもナポレオンは連戦連勝を収め、「若き英雄」として国民的スターとなっていきました。
天才軍人、皇帝になる
同盟の一角であるオーストリアを叩いたものの、主敵であるイギリスは健在のままでした。そこで、総裁政府はイギリスの補給線を絶つべくエジプトへの軍派遣を決めます。
その指揮官に選ばれたナポレオンは、イギリス軍や現地のマムルーク、そしてオスマン帝国の正規軍を相手取りながら、こちらでも勝ち続けました。
1799年に一時帰国すると、総裁の1人であったシエイエスとともにブリュメール18日クーデターを決行、統領政府樹立すると自身は第一執政官の地位に就きました。
中将でありながら執政官となった彼は、各地を奔走します。まず、軍を率いてオーストリアを再び北イタリアで撃退すると、今度は外交官としてイギリスとアミアンの和約を結んで講和にこぎつけます。
また、1800年にはフランス銀行を設立、革命で混乱するフランス経済の立て直しをはじめました。それ以外にも、1802年にはフランスが誇る最高栄典であるレジオンドヌール勲章の制定、1804年には現代法の規範ともいえるナポレオン法典を発布するなど、あらゆる面で才能を発揮しました。
そして1804年、国民投票によって皇帝ナポレオン1世として戴冠。「フランス人民の皇帝」となったナポレオンは、多くの政治家、官僚、学者などを登用し、フランスの政治を動かしていきます(第一帝政)
皇帝になったナポレオンは絶頂期です。強敵だったプロイセンを撃破、ドイツや北イタリア各地にフランスの従属国をつくり、中央ヨーロッパを我が物としました。
しかし、1808年にスペイン・ブルボン朝の内紛に介入しようとして失敗、対仏同盟の主敵であるイギリスを潰すべく大陸封鎖令を発令するも、逆にイギリス製品が入ってこなくなったフランス国内では不満が溜まることとなります。そして、決定打となったのが1812年のロシア遠征での失敗です。
こうして、若年期の連戦連勝が嘘のように敗北を重ねたナポレオンから徐々に民心は離れていきました。そして、1814年には諸国連合50万の兵に攻められパリが陥落、帝位を追い落とされることとなりました。
それでも諦めないのがナポレオンです。1815年にウィーン会議で諸国が荒れるなか、幽閉先であった地中海のエルバ島を脱出、一時的に権力を取り戻します。しかし、この復活劇もワーテルローの戦いで敗北したことで終わりをつげ、今度は二度と大陸に戻れないよう南大西洋のセントヘレナ島へ流罪、そこで51年の激動の生涯を終えました。
ナポレオン1世のホント・ウソ
革命後のフランスに颯爽と現れ、人々に強烈な印象を残して消えたナポレオン1世には野心家や軍人らしいエピソードが多数存在します。
しかし、その一方で実に人間味のあふれる面白いエピソードも多数残っています。ここからは、巷間に流れるナポレオン1世の噂について、真偽を確かめていきましょう。
ナポレオン1世は背が低かった?
ナポレオン1世の噂でよく耳にするのが、非常に背が低くコンプレックスに感じていたというものです。
現在、主流となっている学説ではナポレオン1世の身長は168cmとされており、確かに軍人として恵まれた体躯とは言えません。しかし、当時のフランス人の男性の平均身長が165cm程度であることを考えると、とりたてて「低い」と言えるほどの身長ではありません。
間違っても、「ナポレオン・コンプレックス」という言葉が生まれるほど、コンプレックスに感じる低身長ではないでしょう。
では、なぜ、このようなナポレオン=低身長のイメージが生まれたのか。
その理由については、国内の敵対派閥や対仏同盟の主敵であったイギリスのプロパガンダによる印象操作や、イギリスとフランスでの「フィート」単位の違いなどさまざまな要因が語られていますが、詳しいことはまだ分かっていません。
睡眠時間は3時間だった
ナポレオンは軍人としての作戦立案や皇帝としての政務のために、睡眠時間が極端に短かったという噂もよく耳にするものの1つでしょう。その時間は3時間程度であったものの、翌日に疲れを見せたり居眠りをしたりするところを見せたことがない、という話が続くこともあります。
しかし、日誌や側近の記録によると、平均的には5~6時間ほど寝ていたようです。もちろん、あまりの忙しさから3時間しか寝ない日もあったそうですが、単純に「眠れない」だけでありショートスリーパーのような体質をナポレオンが持っていたというわけではないようです。
実は占い好き?
これも有名な俗説ですが、ナポレオン1世は占いが好きで星占いや予言を参考にして戦略を立てたという話です。あの劇的な勝利といわれるアウステルリッツの戦いも占いを参考に戦略を立て、その占い通りに事が運んだ結果、奇跡的な大勝利につながったというものです。
確かに、側近の記録には、ナポレオンは占星術師の意見を聞いたことがあると残っています。しかし、占いに対して妄信的に依存していたわけではないでしょう。
そもそも、ルネサンスも終わりかけの18世紀初頭にはケプラーやニュートンらの登場により占星術自体が非科学的なものとして扱われていました。現実主義者として語られることの多いナポレオンが、どこまで占星術師の意見を取り入れたのかは疑問が残るところです。
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ナポレオン時代に発行された40フラン金貨は、20フラン金貨の倍額面として鋳造数が少なく、希少性の高い金貨です。純度90%、重量約12.9gという確かな金含有量に加え、歴史的背景や肖像の価値から、現在もコレクター・投資家双方に高く評価されています。
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