ハンガリーのダカット金貨について紹介
古い時代の貨幣は、偽造防止や信用創造といった観点から、その国の王様の肖像が刻まれることが一般的です。王様の肖像を刻むことで「〇〇国が発行した正式な通貨である」という保証となるだけではなく、髪や髭、顔の輪郭などを複雑にすることで、容易に偽造できないようになっています。
さて、そんな古い時代の貨幣は、刻まれている王様によってプレミアがつくというのはご存知でしょうか。発行枚数の希少性や王のその国における政治的・歴史的意義など、プレミアがつく理由はさまざまですが、いずれにせよ高額で取引されているというのは、間違いありません。
今回は、そんな貨幣のなかから、ハンガリーのダカット金貨を紹介いたします。
基本情報
| 発行国 | ハンガリー |
| 発行年 | 14世紀後半から1915年ごろまで発行 |
| 素材 | 純金に近い金(通常約98~99%) |
| 額面 | 1ダカット |
| 重量 | 約3.5~3.6g(初期は少し軽め) |
| 図案(表) | 王冠を戴いたハンガリー王の肖像や王の名 |
| 図案(裏) | 十字架、盾、王家の紋章などがデザイン |
「ダカット」は、ヨーロッパの中世~近世にかけて広く流通した国際標準的な高純度金貨を指す総称であり、古代ラテン語の「公爵の」を意味する「ducatus」に由来します。もとは、イタリアのシチリア王国からはじまり、ジェノバやヴェネツィア、フィレンツェなどの商人を介して、欧州各地に広まりました。
現代においても、歴史的・美術的価値の高さから、収集家や投資家の人気を集めており、中世のオリジナルコインは数百万円~数千万円で取引されることも少なくありません。
女帝の肖像
ハンガリーのダカットは14世紀ごろから鋳造がはじまり、その純度の高さからヨーロッパ各国で受け入れられたと言われています。ヴェネツィアのダカットがデザインを守り続けたのとは対照的に、ハンガリーのダカットは王の交代によって一新することも多く、さまざまなデザインのダカットが確認されています。
そんな数あるハンガリーダカットのなかでも、ひときわ人気なのが、マリア・テレジアの肖像が刻まれたものです。当時の金貨としては、非常に精巧で美しいデザインであることはもちろんですが、「女帝」テレジア本人の人気も理由の1つでしょう。ヨーロッパの歴史を動かした女帝の肖像に迫りましょう。
公女の時代
マリア・テレジアは、1717年に当時の神聖ローマ皇帝カール6世の長女としてオーストリアで誕生しました。名門であるハプスブルク家の生まれであり、母親譲りの美貌から市井でも人気の公女だったと言われてます。
父カール6世には男児がいなかったため、テレジアの婿が帝位を継ぐことを想定し、かなり早い段階から婿選びも進められていました。そこで登場するのが、オスマン帝国との戦争で活躍を見せたシャルル5世の孫フランツ・シュテファンです。
もともと、シャルル5世がテレジアの祖父レオポルト1世に仕えていたこともあり、カール6世も「是非にと」望むようになりました。
当のテレジアはというと、このとき6歳でしたが、9歳も年上のフランツに一目ぼれし、「昼も夜もフランツのことを話していた」と当時のイギリスの大使が記録しています。
そして、1736年、当時の王族としては奇跡に近い恋愛の末、2人は結婚します。両人の周りには政治的・外交的なトラブルはあったものの、夫婦仲はすごぶる良好でした。
母親の子どもを守る大博打
ハプスブルク家は男系相続によって成り立っていた家系です。しかし、息子のいなかったカール6世は、一時的な措置としてテレジアがハプスブルク家の領地を相続することを各国に認めさせていました。
娘思いなカール6世でしたが、1740年に突如崩御してしまいます。帝国の混乱を見た各国は、「テレジアの領地相続を認めない」との横紙破りで一斉に帝国領内へと進軍をはじめます。世にいうオーストリア継承戦争です。
フランス、プロイセン、スペインにスウェーデンとオーストリア西方が続々と敵に回る中、テレジアは活路を東方のハンガリーへと見出します。しかし、救いの糸となるはずのハンガリーは、そもそもオーストリアとは異民族であり、長年の心象的・民族的な対立が根深い国でした。
そんな国を訪れたテレジアは1741年にハンガリー女王として即位、ハンガリーの議会と交渉を開始します。議会の場でテレジアは、同年の3月に生まれたばかりの息子とともに現れ、「この子を抱いた私を助けられるのは貴方たちだけ」と演説。数か月にも及ぶ交渉の末、ついにハンガリーの援軍を取り付けることに成功しました。
この援軍により瓦解寸前だった帝国は持ち直し、各地で戦闘を優位に進めていきます。結果的にフリードリヒ2世率いるプロイセンに多少の領土は奪われたものの、テレジアのハプスブルク家継承、夫のフランツの神聖ローマ帝国皇帝の継承を各国に認めさせることとなりました。
外交革命と国内改革
継承戦争で外交の最前線に立ったテレジアは、その後政治家としての才覚を遺憾なく発揮していきます。なかでも、彼女の外交における最大の功績といえるのが、ロシア、フランスとの同盟です。
前提としてフランス・ブルボン朝とハプスブルク家は、先の継承戦争のみならず三十年戦争やスペイン継承戦争でも対立しており、100年以上にわたる宿敵ともいえる関係性でした。
しかし、オーストリア継承戦争において主敵がプロイセンに変わったことから、フランスとの同盟締結を画策します。テレジア自身はフランスの閨閥政治を嫌っていましたが、ルイ15世の愛妾であるポンパドゥール夫人を介して同盟締結、同時に生後間もない娘マリア・アントニアの婚約も内定しました。
また、同じく当時のプロイセン王フリードリヒ2世を嫌っていたロシアの皇帝エリザヴェータにも接近、露墺同盟の締結に成功します。この外交交渉は、帝国の外交の従来路線を完全に変えたことから外交革命とも言われています。
その辣腕ぶりは内政でも発揮されます。世界に先駆けて初等教育の導入や、徴兵制などの軍制改革など数々の改革に着手し、オーストリアが近代国家へと生まれ変わる道筋をつけたのもテレジアの功績によるものです。
母としてのマリア・テレジア
政治家としての辣腕ぶりが評価されるマリア・テレジアですが、彼女が人気なのは「政治家」としてだけではなく、1人の「母」として子どもたちを導いた点も大きく影響しています。時に優しく、時に厳しく、子どもたちを導いた彼女の「母」としての肖像に迫りましょう。
王族の母として
テレジアは夫であるフランツとの間に男子5人、女子11人の16人の子供を設けています。当時の王侯貴族は低年齢での結婚や政治的・外交的な理由から10人程度の子どもがいるというのは決して珍しくありません。それでも、テレジアの16人というのは際立って多い人数と言えるでしょう。
父カール6世が後継者問題に悩んだため、彼女はできるかぎり子を産もうと考えていたと言います。後々、自身の領地継承がヨーロッパ全土を巻き込む戦争に発展したことを考えれば、彼女の考えは今後もハプスブルク家を存続させていくために必要だったのかもしれません。
また、彼女の子供たちは、その多くがブルボン朝の子女と結婚しました。外交革命の結果、ハプスブルク家とブルボン家が各地で結びつき、その系譜は現代にも続いています。そのような経緯もあり、テレジアはフランスのアリエール・ダキテーヌ、イギリスのヴィクトリア女王とともに、「ヨーロッパの祖母」と呼ばれています。
母としてのマリア・テレジア
王族の母として厳格であったテレジアですが、その一方で1人の母親として子どもたちを心配するエピソードも数多く残っています。
子どもが病気になったときには、医師団に詳細な指示を出し、政務の合間を縫って可能な限り自ら看病するなど、子どもたちのことを大切に思っていました。
また、嫁いだ娘たちや遠征中の息子たちへと頻繁に手紙を書いており、そのなかには夫婦生活や政治に至るまで経験者としての助言が数多く残されています。
なかでも、フランスに嫁いだ末娘のマリア・アントニア、つまりはマリー・アントワネットには「夫(ルイ16世)に親切に接しなさい」「いつまでも軽率に笑っている場合ではない」「無駄遣いするな」と非常に厳しい叱責が現存する書簡にも記されています。
マリーが母からの手紙をどう思っていたかは分かりません。ただ、もしマリーが母からの忠告を受け入れていたとしたならば、その後のヨーロッパの歴史は大きく変わっていたことでしょう。
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