コロナ金貨について紹介
古今東西、民族問題は非常に根が深い問題です。双方が納得できる落としどころが探れる金や利権問題とは違い、自分たちのアイデンティティそのものを脅かすため落着地点が探しにくく、現代においても戦争や紛争は枚挙に暇がありません。
現代においても、アイルランド、パレスチナ、ウクライナなど世界中に民族対立の火種は転がっています。
だからこそ、異なる民族が国を作り上げるというのは、それだけでも十分すぎる友好の証になります。今回は、そんな異民族の融合によって生まれ、同じ民族問題によって滅んでしまったオーストリア=ハンガリー帝国のコロナ金貨を紹介します。
基本情報
| 発行国 | オーストリア=ハンガリー帝国 |
| 発行年 | 主に1908年から1915年 |
| 素材 | 金(品位約21.6K) |
| 額面 | 100コロナ |
| 重量 | 約33.8g 約37mm |
| 図案 | 立像タイプ(1892年~1915年) ・国王フランツ・ヨーゼフ1世が王冠をかぶり、王笏とオーブを持って立つ姿 紋章タイプ(1908年~1915年) ・オーストリア・ハンガリー帝国の双頭の鷲が描かれ、盾を持つデザイン |
古い時代の金貨は現存する枚数が少ないため、高額になる傾向があります。特に、すでに滅んでしまった国の金貨は滅亡時の混乱による散逸、占領国による新貨幣の発行などで殊更に希少価値が高まります。
このオーストリア=ハンガリー帝国のコロナ金貨も、その例に漏れず高額取引の対象となることが多い金貨です。また、高グレードのものや初期の発行年のものはプレミアが付くことも珍しくありません。
例えば、1908年発行の100コロナ金貨は、そもそも記録されている発行枚数自体が4,038枚と極めて少ないため、その希少性の高さから過去のオークションでは約2,760,000円で落札された実績もあります。
夢見た楽園 ~オーストリア=ハンガリー帝国~
18世紀、フランス革命に端を発する民族意識の芽生えは、各地で中央集権国家の誕生と自由主義へとつながっていきます。各国で革命が勃発、神聖ローマ帝国以来の名門ハプスブルク家を擁するオーストリアも衰退を余儀なくされます。
この帝国の落日に対して生まれたのが二重君主制の帝国、オーストリア=ハンガリー帝国です。1人の国王、2つの議会を抱く、多民族国家の楽園を目指した帝国の真実に迫りましょう。
妥協から生まれた夢の楽園
ナポレオン失脚後、欧州は再び王と貴族が権力を握るウィーン体制のもと一定の平和が保たれていました。しかし、自由主義と民族主義は衰えるどころか逆に燃え盛り、1848年には各地で革命が勃発します。
古くからハンガリーに住むマジャル人たちのグループは、この続発する革命を好機と見て、長らく母国を支配してきたオーストリアからの独立を求める運動を国内各地で起こします。
この1848年のハンガリー革命はオーストリアとロシアによって一度は頓挫してしまいました。しかし、なおもマジャル人やそのほかハンガリー国内の被支配民族は頑強に独立運動を続けます。
そして、1866年の普墺戦争でプロイセンにオーストリアが敗北すると、もはやオーストリアに改革派を打ち破るだけの力は残されていませんでした。
この状況を危惧したオーストリア皇帝ヨーゼフ1世は、これまでのハンガリーに対する方針を転換、マジャル人たちとともに帝国の立て直しを図ります。
こうした帝国を維持したいオーストリア政府と、自治権の拡大を狙うハンガリーとの間でアウスグライヒ(妥協)が行われた結果、1867年にフランツ・ヨーゼフ1世をお互いに統治者とする、二重君主制のオーストリア=ハンガリー帝国が誕生しました。
帝国を蝕んだ毒
オーストリア=ハンガリー帝国では、議会や憲法などの政治体制は両方持ちながらも、オーストリア皇帝とハンガリー国王をヨーゼフ1世が兼ねることで、全体として1つの国家としてまとまっていました。
支配領域も現在のオーストリア、ハンガリーに留まらず、ポーランド、クロアチアといった東欧諸国一帯に跨る大帝国です。
しかし、一見平和そうに見える帝国には、新たな民族問題の火種が生まれることとなります。
もともと、統一前から両国は、国内に多様な民族を抱える多民族国家です。また、少数民族のなかには医者や工場経営者などの社会的地位のある人物も多くいました。
彼らが、マジャル人、ポーランド人、クロアチア人といった特定民族だけが自治権を拡大させていった状況を見て、どう思ったかは想像に固くありません。
結果的に、一層民族運動は激化し、チェコ人やユダヤ人などが次々と自治権を要求するようになっていきます。
これに対して、帝国側も一定の自治権は認めていくものの、既存の権益との衝突やほかの民族の自治権の兼ね合いから、決して各民族が満足のいく結果にならなかったことも事実です。
この問題は、第一次世界大戦の敗戦で帝国各地で噴火することとなり、民族運動を抑えられるだけの余力がなかった帝国は解体。ここに650年にわたり欧州に君臨したハプスブルクの帝国は滅ぶこととなりました。
帝国を支えた男
多民族国家において、すべての民族が納得できるだけの政策実現は、もはや夢物語と言ってよいでしょう。この課題は、現代においても超大国であるアメリカが長年にわたり悩み続けている問題です。
そんな夢物語を実現するために苦心し続けた皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世について語っていきましょう。
二重君主制という回答
ヨーゼフ1世はカトリックの信仰心が厚く、伝統や秩序を重んじる性格であったと言われています。ハンガリーとのアウスグライヒが成功したのは、彼の気風が同じカトリックであるハンガリー人に受け入れられたことも、理由の1つかもしれません。
また、ハンガリーと同様の対応を、チェコやポーランドにも行おうとしていました。結局、ハンガリーからの「二重君主制を破壊しかねない」という抗議によって実現しなかったものの、帝国内の安定維持のため、数多くの少数民族と帝国との妥協点を常に探し、臣民として気にかけていたことは事実です。
その最たるエピソードといえるのが、1914年に反ユダヤ主義であった保守政党に対する脅しでしょう。この政党の「ウィーンからユダヤ人を放逐する」との宣言に対して、ヨーゼフは「シェーンブルン宮殿を開放し、受け入れる」と脅し返したと言います。
そのような皇帝に対して、後年の歴史家からは、「戦争に負け続けた」「息子にも妻にも先立たれた」など、不幸な皇帝としての評価が少なくありません。しかし、一方で国内の民族問題に何度失敗しても不屈の精神で立ち向かっていったことへの評価は非常に高く、現在でも彼の肖像画は東欧各国の街角で見ることができます。
世紀末ウィーンと芸術を広めた皇帝
政治面では苦労続きであったヨーゼフ1世ですが、一方で芸術家や学者の庇護者としても知られています。帝国の文化的繁栄を支え、帝国をヨーロッパ文化の中心地にする一翼を担ったことこそが、ヨーゼフ1世の最大の功績と言ってよいでしょう。
事実、ハンガリーの首都ブタペストの観光名所や文化財の多くは、彼の在位時代に整備・保護されたものです。
そして、ブタペストよりも先進的で文化的だったのが、帝都ウィーンです。ウィーンの街は、現在の国立歌劇場の前身にあたるウィーン宮廷歌劇場をはじめとして、続々のコンサートホールや劇場が建設され、数多く歌劇が公開されました。
ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世やドイツ3大Bの1人、ブラームスもこの時代に活躍した音楽家です。
音楽ばかりが注目されがちですが、小説ではホーフマンスタール、シュニッツラーらの文芸サークル「青年ウィーン」の印象派小説が隆盛、彼ら以外にも『変身』のカフカ、『夢遊の人々』ブロッホなど数多くの作家が誕生しました。
世紀末のウィーンに集ったのは何も芸術家だけではありません。
精神分析学の大家ともいえるフロイトと弟子であるアドラー、生物学ではメンデル、経済学ではシュンペーターと現代にも通じる学問が続々とウィーンの街で盛んに議論され、そこには派閥や民族の壁を越えたコスモポリタンの楽園が存在していました。
ハンガリーコロナ金貨の買取は金貨買取本舗まで
かつてオーストリア=ハンガリー帝国の繁栄を象徴したハンガリーコロナ金貨。美しいダブルヘッドの鷲や国章が刻まれたその意匠は、今なお高い人気を誇ります。金の含有量や歴史的価値から、国内外で取引が盛んなコインのひとつです。
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