ニウエのアインシュタイン金貨について紹介
20世紀最高の頭脳の持ち主とは一体誰でしょうか。
もちろん、国や年齢によって答えはさまざま考えられますが、ドイツ出身の物理学者アインシュタインは有力候補の1人でしょう。
彼の表した相対性理論は旧来の物理学の常識を打ち破り、シュレディンガーやハイゼンベルクの提唱した量子力学とともに、新たな時代の扉を開いたと言っても過言ではありません。
そんな天才を称えた金貨をご紹介します。
基本情報
| 発行国 | ニウエ (Niue) |
| 発行年 | 2022 |
| 素材 | 金99.99% |
| 額面 | 250ドル(Niue 通貨) |
| 重量 | 1トロイオンス |
| 図案(表) | ・アインシュタインの肖像画、肖像の下には「E = mc2」の式とアインシュタインのサイン ・背景には惑星や格子状パターンなどブラックホールのようなデザイン →彼の相対性理論に大きく関わる要素 |
| 図案(裏) | 太陽に向かって手を伸ばす女神の姿、ニウエの国章と年号、額面が刻印 |
この金貨は、ニュートンやライト兄弟、マリー・キュリーなどもデザインされている「Icons of Inspiration(ひらめきの肖像)」のシリーズの1つです。
時代も分野も異なりますが、後の時代に大きな影響を与えた天才たちの1人としてアインシュタインも選ばれています。
シリーズものの1つであることに加え、限定100枚と非常に少ない鋳造数のため、コレクターズアイテムとしての希少性が高く、また純金1オンスという質の高さから、未使用品ともなれば非常に高額になることも考えられる逸品です。
時代を変えた科学者
20世紀を代表する科学者の1人であるアインシュタイン。
まずは、アインシュタインの生い立ちとともに、相対性理論を表した彼の科学者としての功績に迫っていきましょう。
物理学を変えた天才
アインシュタインは1879年3月14日ドイツ帝国南部のウルムに生まれました。
学校には馴染めなかったものの、少年期から物理・数学への興味を示し、独学で勉強を進め、15歳のころには短いながらも試論を書いたと言われています。
その後、スイスのチューリッヒ連邦工科大学に進学し、本格的に物理学を学びはじめるものの、教授には反抗する、実験室で爆発事故を起こす、気にいらない授業はサボるなど、決して素行が良いとは言えない学生でした。
1900年に卒業するものの、上記のような素行から大学の教授陣とは不仲であったために助手として残ることはできず、スイス特許庁に勤める「特許局の技師」として務めることとなりました。
その後の1905年、26歳のときに『アナーレン・デア・フィジーク』誌に論文を立て続けに4本発表します。
この4つの論文は、空間、時間、質量、エネルギーといった基本的な概念に対する従来の科学的理解に大きな変革をもたらし、現代物理学の出発点となりました。
このことから、1905年は「奇跡の年」と呼ばれるようになり、国際純粋・応用物理学連合(IUPAP)は、奇跡の年から100年目となる2005年を「世界物理年」として記念しています。
相対性理論とは何か?
生涯にわたり研究を続けた彼の発見のなかでも最も有名なのが「相対性理論」でしょう。しかし、名前は知っていても具体的にどういう理論なのかを知らない人も多いはず。
彼の言う相対性理論とは一体、どういう理論なのでしょうか。
簡単に言ってしまえば、「超高速で動く物体は時間の流れが遅くなる」というものです。
これまでのニュートン物理学では、空間と時間は「絶対的」で変化することがない、というのが原則であり、だからこそ、ニュートン物理学では「速さ」は足し合わせることが可能でした。
しかし、イギリスのマクスウェルが提唱した光の速度に関する方程式、いわゆる「マクスウェル方程式」を解くと、どんな状態であっても光の速度が必ず一定になることが分かりました。この光の速さと従来の物理学の間で矛盾が生まれてしまうことに、多くの学者たちが頭を悩ませます。
そこでアインシュタインは、「そもそもニュートン物理学自体が間違っているのでは」と仮定し、従来の「絶対的」な時間と空間ではなく、観測者によって空間と時間そのものが「相対的」に変化するという新しい前提を導入すると、この実験の矛盾を一気に解消できることに気が付きました。
この前提こそが、アインシュタインの最大の功績ともいえる相対性理論の骨子です。
非常に概念的な理論ですが、現代においては、GPSを筆頭とした人工衛星との交信などで、必ず相対性理論における時間の補正が行われており、私たちに日常にも密接に関係しています。
悩み続けた平和活動家
1921年、42歳の若さでノーベル物理学賞を受賞したアインシュタインは、間違いなく天才と称されるべき人物に違いありません。
しかし、彼にはもう1つ、平和活動家としての顔があります。軍靴の音が聞こえてくる中、戦い続けたアインシュタインのもう1つの顔に迫りましょう。
亡命と絶望の計画
数々の科学的発見によって名声を手に入れたアインシュタインは、科学の平和利用を説く講演を各地で続けていました。また、ユダヤ人でもあった彼はユダヤ人国家建国のシオニズムも支援していました。
しかし、アメリカでの講演中であった1933年にナチスが政権を掌握すると、かねてよりドイツ国内の民族主義者から反感を買っていたアインシュタインは国家反逆者に指定されてしまいます。
ドイツに帰国できなくなった彼は、そのままアメリカに亡命し、なおも研究と講演を続けました。
そして、亡命の時期と前後して、アインシュタインはナチスが核開発を進めていることを知ります。
従来の爆弾をはるかに超える破壊力を持つ爆弾の開発を危険視したアインシュタインは、同じく亡命してきたユダヤ人科学者と連名でルーズベルト大統領へ書簡を送りました。
もちろん、平和主義者であったアインシュタインは、原爆の危険性を説くために送ったつもりだったのでしょう。しかし、皮肉にも原爆の破壊力に魅せられた米国首脳部は、原爆開発計画であるマンハッタン計画を策定、そして、これが広島・長崎の悲劇へとつながってしまうこととなりました。
戦後、同じくノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹と対談したときには「このような結果になるならば、あの手紙は書かなかっただろう」という深い後悔の言葉を残しています。
アインシュタインが目指した平和
核兵器のもたらす結果を目の当たりにしてしまったアインシュタインは、戦後、より精力的に世界各地で平和運動や国際連合強化などの活動に参加しています。
1955年には核兵器廃絶や戦争根絶・科学技術の平和利用などを要請する内容のラッセル=アインシュタイン宣言の発起人となりました。
また、アメリカ国内においても、マッカーシーが中心となった反共産主義キャンペーンに対して、徹底した反対の立場を取り続けました。
当時のアメリカは、忠誠審査や公聴会、ブラックリストによって、共産主義者だけでなく反戦・進歩的な知識人全般が弾圧されていた時代です。そのような時代にあってなお、アインシュタインは「学問の自由」「表現の自由」を重視し、誰もが自由に発言、研究できる時代こそが健全と説き続けました。
世界中で平和と科学を説き続けたアインシュタインは、1955年、宣言に署名した数日後に76歳でこの世を去ります。
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