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「大判小判」というと、黄金色に輝く楕円形のお金ということはご存知の方も多いと思います。
大量の大判小判として、「徳川埋蔵金」が思い浮かびますが、当時の金額で約400万両、現在の価値で20兆円と言われています。
そんな高い価値をもつ大判小判ですが、実際の価値やその意味、そしてどのくらいの種類が存在したのか、などを深堀していきたいと思います。
大判小判とは、江戸時代に使われていた金貨のことです。金を薄く打ち延ばし、鍛えて平らにして大型の楕円形に作られた延金貨幣の一種です。その板金に墨書をした金貨で、主に贈答などの儀礼の場面で使われていました。
「天正大判」より前に作られた金貨は、重さや品位が一定せず、使うたびに秤で重さをはかる必要がありましたが、天正大判以降に作られた大判は、重さや品位が基準化されました。
小判は、天正時代から江戸時代にかけて日本で使用されていた通貨のひとつで、大判同様延金貨幣の一種です。
楕円形の小判「天保小判金」は寸法約5.9cmで、「万延小判金」は寸法約3.3cmあります。
大判小判は安土桃山時代から江戸時代まで作られており、「大判」は1588年(天正16年)「豊臣秀吉」の命によって、「小判」は、1601年(慶長6年)「徳川家康」が豊臣秀吉の許可を得て鋳造されたと言われています。
大判小判は時代によってさまざまな種類があり、その当時の社会に対する幕府の政策が反映されています。
幕府の金貨鋳造を請け負ったのは、すでに秀吉の大判作りを手掛けていた後藤家です。大判製造にあたった後藤四郎兵衛家の役所のことを「大判座」と言います。大判の製造や墨書の書直しなどが主体でした。
京で大判座を開き、のちに1715年(正徳5年)には江戸へ移り、京橋に幕府から屋敷を拝領して明治維新まで鋳造を続けました。
小判を鋳造する役所のことを「金座」と言い、当初は「小判座」と呼ばれていました。
1595年(文禄4年)、徳川家康の命に従い、御用彫金師であった後藤徳乗の名代として江戸に赴き、本町1丁目(現在の日本銀行本店敷地)にて鋳造を行っていました。
大判小判という言葉は、日本の江戸時代に使われた貨幣の単位を指す表現です。江戸時代の貨幣制度は非常に複雑かつ多様であり、そのなかでもとくに大判と小判は広く使われていた貨幣でした。
経済的な価値だけでなく、大判小判を持つことは社会的な身の安全を保障すると共に権力の象徴とされ、権威の確立や富のアピールの手段となりました。
当時の社会では大名や豪商などの富裕層が相当の大判小判を所有しており、江戸の日本において経済的な活動や社会的な関係に重要な意味を持っていました。
「大判」は格式の高い金貨であり小判に比べると流通量が少なく、希少性があります。主な大判として、「天保大判」「慶長大判」があります。
大判の特徴はその存在感です。種類により若干異なりますが、20㎝以上の物もあるのでインパクト抜群です。
「小判」の特徴は大判と同じように、金の塊を叩いたり延ばしたりすることで作られていますが、大判よりも小さいという点があります。
大判は、恩賞用や贈答用として用いられるのが一般的で、小判は主に日常取引に用いられていました。
広く流通していたこともあり発行数も多く、「慶長小判」や「元禄小判」「享保小判」など古銭コレクターを魅了する数多くの小判が存在しています。
大判は金の純度が高く、品質や質量を保証する極印のほかに貨幣表面の墨書がありますが、小判は金銀の合金。額面や品質保証の極印はあるが墨書はないなど、目的の違いが仕様に表れています。
金は多種多様な用途で重宝されていますが、現在の日本ではほとんど採掘されていません。しかし、江戸時代においては佐渡島で多くの金や銀が採掘されており、幕府の財政を支えていました。
その採掘量は世界有数で、佐渡島には金の採掘を求めて多くの人が出入りしていました。最盛期における金の採掘量は年間で400kgと言われています。
また、金を採掘するにあたって罪人や災害により家を無くした人など、さまざまな背景を持つ人が職務に臨んでいました。金鉱石を盗み出さないように佐渡島内には「佐渡奉行所」と呼ばれる役所や裁判所のような役割を持つ施設もありました。
このような時代背景があることから、金は日本においても高い価値を持っていたと言えます。
大判は墨で額面が書かれており、その下には花押と呼ばれるサインが据えられています。サインの主は大判や小判を製造する責任者で、この花押がかすれていたり、消えてしまったりすると通貨としての価値がなくなってしまいます。
万が一そういった事態になった場合には金座の後藤家へ行き、手数料を払って新たに書いてもらう必要があり、その手数料は時代によって異なりますが、1両になることもあったと言われています。
そんな高額な手数料を支払うことが無いよう、綿に包んでさらに絹布でくるみ貴重品並みの扱いでした。
大判は手書きで墨書きがされていた影響もあり、発行枚数も少なかったため、現代では、「貨幣」としての価値だけでなく、「古銭」としての価値が非常に高く、その希少性、美しさ、歴史的な価値などから高額で取引されることがあります。
安くても200万円、高いものでは1,000万円以上になることもあります。
小判もまた、大判と同様にその歴史的価値と芸術性から古銭としての価値が高く評価されています。小判の価値はその状態やプレミア価値、歴史的重要性によっては50万円から200万円ほどでやりとりされています。
大判小判は日本の歴史的な金製品であり、その価値は非常に高いです。それぞれの発行時期や場所によって金の純度は違いますが、大判の金の含有量は70%前後で、恩賞や贈答品として用いられることが多かったので、貨幣というよりは地金としての性格が強いです。
この高い純度は貨幣の金製品としての価値を高めました。
大判は金で作られた貨幣で、その金の純度や重さによって価値が決まります。江戸時代の大判は通常24金で鋳造されていたので、非常に高い価値を持っています。
小判は大判と比べて重さも金の含有量も少ないため、金製品の価値としては低い印象ですが、種類が豊富なのでそれによって価値が大きく変わります。武蔵墨書小判・駿河墨書小判の場合、発行数も少なく貴重であるため、高値で取引されています。
一般的に小判は金貨とされ、純金のように見えるものが多いですが、実は金銀合金で作られており、元禄小判は金57.37%、銀42.63%の合金となります。享保小判のように金87%と品位が高い小判も存在するので、小判も大判同様価値のある金製品です。
現代において、大判小判は歴史的・美術的価値があり、金製品としての価値もあります。
ただし、大判小判の価値は市場やコレクターズアイテムの供給に影響を受けるため、価格が変動します。高い純金度、歴史的な重要性、希少性、そして金としての投資価値から見ても金製品としての高い価値を持っています。
大判小判は江戸時代から明治時代までの日本の貨幣で、日本の歴史と文化に深く根付いています。そのため、これらの金貨は歴史的な重要性を持ち、歴史愛好家やコレクターにとって価値が高いとされています。
金の含有量の多いものや発行枚数の少ない大判と小判は非常に希少であり、市場で高い価格で取引される可能性があります。
希少なバージョンはコレクターの注目を集めます。大判小判は純金で作られているので、その金の純度が高いため、金の価値に連動する傾向があります。
大判と小判の保存状態は重要です。良好な状態で保存された金貨は、優れた価値を持つことがあります。逆に、傷や摩耗がある場合、価値が低下する可能性があります。
大判と小判はコレクターの間で高い需要があり、専門的な市場が存在します。競売や専門店で取引され、収集家たちが高額で入手するために競合することがあります。
大判小判は金製品としてその歴史的背景、希少性、金の純度、保存状態、市場のニーズなどの影響を受けて価値が認められます。まず、専門家の評価や市場の動向を考慮することが重要です。
ここでは、具体的に小判の種類を紹介していきます。小判は大判に比べると金の含有量が少なく、金と銀の合金で作られていることが多いのが特徴。
ですが、江戸時代以前の駿河墨書小判や武蔵墨書小判は、江戸時代のものより金の含有量が多く、金としての価値も高かったことが伺えます。
江戸時代は発行された種類は多かったものの、後半は幕府の政策などで使用する金の量を減らす対策がとられました。それもあり、どの小判も金の含有量がまちまちで、価値も種類によって大きく異なるのです。
なお、ここで紹介している小判は、駿河墨書小判と武蔵墨書小判が江戸時代以前のもの、それ以降が江戸時代のものと分けられます。
駿河墨書小判は日本で最も古い小判とされていますが、これを製造したのが徳川家康だという説と、豊臣秀吉家臣、中村一氏という説の間で意見が分かれており、決定的な答えはまだ出ていません。
武蔵墨書小判は、徳川家康によって関八州エリア(現在の一都六県)にて使用された領国貨幣であり、慶長小判の元祖と考えられています。
1601年(慶長6年)。慶長小判は、江戸時代に江戸内閣によって創られた最初の象徴的な通貨であり、江戸時代に製造された小判のなかでは、大型で高純度の金を使って作られていました。
慶長小判について詳しくはこちら↓
1695年(元禄8年)。元禄小判は、慶長小判より金の含有量が3割少なく、白っぽい小判。幕府はこの小判を発行することによって利益を得ました。
1710年(宝永7年)。宝永小判は、自然災害や徳川綱吉の浪費による財政逼迫の表れで、流通量を確保しつつ金の品位を慶長金と同等にするための政策でした。
以前に作られた元禄小判は、大きさを維持するために純度を下げるという手段でしたが、これが市場から受け入れられなかったため、今度は小さくして純度を保つという方法をとりました。
宝永小判は、サイズは小さくとも高品質の金貨で、非常に高い価値を持つ古銭となっています。
1714年(正徳4年)。正徳小判とは、新白石の指導の下、通貨改革として鋳造された小判です。これは、荻原重秀の政策で大量に生産された低品位小判を回収し、徳川家康の理念に従って高品位の金貨を鋳造する目的でした。
しかし、実際には後期の慶長小判のような高品位には達せず、その結果悪評が広がりました。これが原因で、わずか4ヵ月後には改鋳されることとなります。
そのため、正徳小判は非常に希少で、価値の高い小判とされています。
1714年(正徳4年)。享保小判は江戸時代初期の日本で流通した金貨の種類で、品位が非常に高いことで知られており、金の含有率が約86%もあります。
この小判を作ったのは「徳川吉宗」です。それまで最高品位の小判は家康が手掛けた「慶長小判」でしたが、吉宗はそれを超える小判として享保小判を作ったのです。
「米将軍」と呼ばれた吉宗は「享保の改革」を実施。その時期の日本は米の生産量が増加したことで価格が大幅に下落しました。江戸時代はすでに貨幣経済が浸透しており、武士は米を貨幣に替えて使わなければいけませんでした。
これにより、享保小判の品位が高くなっても米価の下落により金の価値は相対的に低下し、幕府財政は破綻してしまいます。
そのため次の元文年間には、重さ、品位を下げた「元文小判金」が発行されます。
1736年(元文元年)。1700年代に入ると徳川幕府の財政は窮状に陥ります。そのため、財政再建のため貨幣改鋳を余儀なくされました。
元文年間は徳川吉宗による貨幣改革の失敗によって米価が下落し、幕府財政だけでなく、武家や農民の生活までもが困窮を極めます。そこで「大岡越前」でおなじみの大岡忠相は貨幣の量目を減らし、品位も落とすことで財政再建に成功。
この時期に製造されたのが元文小判金であり、深刻な経済危機を救済し、82年間継続して市場に流通し続けたことでその存在を知られています。
1819年(文政2年)。文政の時代は町人文化が花開きました。しかし、徳川家斉は華美な生活にふけり、財政難を引き起こします。そのため、水野忠成は貨幣制度の改革に乗り出しました。
結果、誕生したのが「文政小判」です。これは特製の献上用としても鋳造され、大判金と同様の役割を果たしました。
1837年(天保8年)。天保年間に入ると大飢饉による未曾有の不景気が財政を圧迫しました。そこで、水野忠邦は品位を保ちながら量目を下げることで、貨幣改鋳益を得ようと考え鋳造されたのが「天保小判」です。
この一枚は初めてローラーで作られた歴史的作品。肌目と黄金の色彩が美麗であるのが特徴で、大変好評でした。
天保小判について詳しくはこちら↓
■天保小判金の買取価格は?本物と偽物の見分け方のポイントは?
1859年(安政6年)。日米和親条約が締結されてから5年後、徳川幕府は「安政小判」を発行します。海外との金銀比価の違いのため、金流出に歯止めがかからず徳川幕府は世界経済の荒波にもまれていったのです。
この一枚は品位こそ、それまでの天保小判と同じですが、重さは2.25g減。実質、純金量は5.11gしかありませんでした。
この時代の金・銀貨はその場しのぎで発行されたものばかりで両目と額面が不一致を起こすなど、不手際が多く、天保年間の貨幣も大量に流出していました。
結果、この小判は海外から不評を買い、わずか3ヵ月で製造停止になります。そのため、今では滅多にお目にかかることのない歴史遺産となっています。
1860年(万延元年)。安政小判と万延小判は、鎖国から開国への移行期の日本において、不利なレートによる金の海外への流出を防ぐ目的で発行されました。
小さな安政小判は、外国の大使館の人たちの都合により、ほとんど流通しなかったという事実があります。
次に発行された万延小判も縮小鋳造され、含まれる金の量は最終的に慶長小判の1/11以下にまで絞りました。その結果、国内は急速なインフレーションに見舞われました。
時代や目的によってさまざまな種類の大判小判が存在し、それぞれ異なる特徴を持っています。そのなかで有名なものを紹介します。
大判はお金でありながら、お金ではなかなった側面を持つ貨幣です。
それはなぜかと言うと、1枚あたりの価値が高く大きさも大きいので、将軍などのあいだで褒美としての献上品や贈呈用に用いられたのです。そのため、一般庶民に流通することはありませんでした。
なお、大判は1588年(天正16年)に豊臣秀吉が彫金師・後藤徳乗に製作を命じて以来、江戸時代を通じて後藤家が大判座として鋳造にあたりました。
1588~1612年(天正16年~慶長17年)。天正大判は、表面に金を打った槌目が特徴的。豊臣秀吉が彫金師の後藤家に命じて作らせた最初の大判。
菱形の桐の紋による極印が特徴的。
縦17cm以上ある大型サイズ。
豊臣秀頼が京都の方広寺大仏殿の再建費用にあてるために鋳造。
1601年頃~1673年頃(慶長6年頃~延宝元年頃)。慶長大判は、天正大判の形状を引き継ぎ、徳川家康が後藤家に命じて作らせました。
初期の金貨。墨書の花押が笹の葉のように見えます。
1657年(明暦3年)の江戸の大火で焼損した金銀を用いて製造。
1695年~1716年(元禄8年~享保元年)。元禄大判は、品位を下げて数多く鋳造することを目的に元禄小判や丁銀と同時に発行されました。裏面に年号の「元」という刻印があります。
1725年~1837年(享保10年~天保8年)。享保大判は、慶長金銀の品位に戻された良質金貨。初めて「大判1枚=7両2分」という価値が設定されました。
1838年~1860年(享保9年~万延元年)。天保大判は、享保大判を増鋳するために鋳造された物で、他の金銀貨の改鋳とは無関係に鋳造されたもの。
これらは「吹増大判」または「天保吹増大判」とも呼ばれました。享保大判とは量目や品位とともに似ていますが、わずかに質が落ちます。
1860年~1862年(享保10年~天保8年)。万延大判は、通貨としての使用目的も兼ねた日本最後の大判。これまでより重量・サイズ・質が落ち、「大判1枚=万延小判25両」の価値が設定されました。
「金座」とは、江戸幕府から大判を除くすべての金貨の製造を独占的に請け負った貨幣製造機関のことで、金貨の製造のほか、通貨の発行という現在の中央銀行業務に相当する役割を担っていました。
金座の初代長となった後藤庄三郎光次は、1595年(文禄4年)、徳川家康の命により、御用彫金師であった後藤徳乗の代わりとして江戸に赴き、本町1丁目に屋敷を構え、金貨の製造に携わりました。
金座は、江戸のほかにも京都、佐渡、駿河にも開設され、幕府から金貨製造の許可を得た「金吹き」と呼ばれる小判師が、後藤家の指図の下、自宅で判金を製造していました。
判金は、後藤家の屋敷内に設けられた後藤役所で検定され、後藤家の極印を打たれて初めて貨幣となります。
その後、1695年(元禄8年)に慶長金が元禄金に改鋳される際、江戸の本郷霊雲寺近辺に吹所と呼ばれる製造所が設置されました。
このとき、各地の小判師は江戸に呼び戻され、後藤役所で行われていた検定・極印打ちを含む製造作業はすべて本郷の製造所に集約されました。
しかし、1698年(元禄11年)本郷の吹所が廃止され、再び本町1丁目の後藤家の屋敷で製造作業が行われ、それが幕末まで続きました。
当初金座は、「小判座」と呼ばれていましたが、金座と呼称されるようになり、京都、佐渡は江戸金座の出張所となりました。
「天正大判」とは安土桃山時代から江戸時代の初期に掛けて、豊臣秀吉が堀金師の後藤家に作らせた最初の大判です。
1588年(天正16年)が初鋳とされ、重さ「拾両」(10両=約165g)、金の含有率73.84%、製作者「後藤」の花押が墨書されています。
とくにこの大判は縦17.3cmと長く、金貨としては世界最大級です。「天正菱大判」「天正長大判」「大仏大判」が有名です。
通常の縦15.4㎝の天正大判が1500~2500万円、縦17㎝以上ある天正長大判は2500~5000万円。
天正菱大判に至っては7000万円~1億円以上の価値があると言われており、2015年にスイスで行われたオークションでは、天正菱大判1枚が1億2500万円で落札され、この金額は古銭としては最高額となります。
天正大判を作った目的は派手好みだった秀吉が、通常の大判では飽き足りず、実用に適していない貨幣として作らせたと言われています。
天下統一を実現させた秀吉は、各地の金山、銀山を直轄地として、算出された金銀をすべて大阪城へ集めさせました。
当時の日本は、世界最大級の金の産出国というのもあり、たくさんの金を集めることができたので、その金を使って彫金家として有名であった後藤一家に金貨を作らせました。
この天正大判は、秀吉自らの勢力の誇示のために作られたと言われています。天正大判をばらまいた「太閤の金くばり」は有名な話です。
天正大判は一般通貨としてではなく、恩賞や贈答品として使われていました。秀吉没後、豊臣家は大阪夏の陣で徳川家康によって滅ぼされましたが、この時に大阪城の焼け跡からは天正大判が2万4000枚も見つかったとされています。
秀吉亡き後、莫大な金銀は天下統一した家康がすべて没収し、新たな金貨に作り直されました。天正大判はその高価さと発見枚数の少なさから取得が難しいとされており、そのため現在では、縁起物としてレプリカが販売されています。
江戸幕府が発行した「慶長大判」は、角のある楕円形の形状が統一されていました。
表面には量目を示す「拾両後藤」の文字と後藤四郎兵衛家の花押が墨書されており、後藤四郎兵衛家5代「後藤徳乗」の弟「後藤長乗」の墨書は、花押が笹の葉に似ているため「笹書大判」と呼ばれました。
表面の上下左右には、丸枠桐紋極印が刻印されており、裏面中央には丸枠桐紋、亀甲桐紋、花押の極印が刻印されています。豊臣秀吉の天正大判とは異なり、慶長大判には大判全体に鏨(がね)による茣蓙目(ござめ)が刻まれていました。
慶長小判との違いは、金に約3%程度の銅を意図的に加えていたところ。この銅の添加により、黄金色が強調され、審美的な効果を持たせることができました。
慶長大判は製造当初には墨書きによる文字やデザインが刻印されていましたが、経年劣化などにより表面の墨書が薄れたり消えたりすることがあった場合、後藤四郎兵衛家に手数料を払うことで書き換えるサービスが提供されていたと言われています。
「慶長小判」は、大判と同様に楕円形の形状を持っていますが、表面には茣蓙目ではなく、荒い打ち目がありました。表面上下にははっきりとした扇枠があり、中に刻まれているのは五三桐紋です。
また、大判と違って墨書ではなく、中央上部に量目を示す「壹両」の極印があります。中央下部に庄三郎光次の名を示す「光次」の花押極印が刻まれており、裏面の中央にも花押、小判師、吹所の試験極印が刻まれています。
この験極印は、さまざまな検査をして製造されたものだと言う証なのです。また、江戸時代には慶長小判の1/4の量目で作られた「慶長一分判」と言う金貨もあります。
これは慶長小判と同等の品位で作られており、通常小判の形状ではなく、四角の短冊形をしていることが特徴です。表面上部には小判と同様に扇枠の桐紋があり、下部には桐紋のみが刻まれています。
中央部分には、量を示すために「一分」と横書きされており、その裏にはしっかりと「光次」の花押極印もあります。小さな金貨にもひとつずつ丁寧に極印が打たれています。さらに、慶長小判の半分の量目で作られた「慶長二分判」も製造されていたことが分かっています。
江戸時代、慶長小判は小額金貨と共に最も広く愛用された貨幣でした。そのあと、江戸時代には1695年(元禄8年)に「元禄小判」、1710年(宝永7年)に「宝永小判」と、時代ごとに元号を冠した小判が作り続けられました。
しかし時代が進むにつれて幕府が財政困難に陥っていき、小判に金の含有量が少なくなり、最後に作られた「万延小判」は慶長小判の1/50の量目しかなかったと言われています。
このように金の含有量は減少していきましたが、小判のデザインはほぼ変わらず、後藤家によって製造され続けていました。
大判小判と言うと昔話や時代劇で見聞きしていましたが、たくさんの種類があることが分かっていただけたと思います。
そして、さまざまな思惑にまつわる価値の上げ下げのため、大勢の人たちが工夫をこらし、幾度とない改鋳や鋳造を行ってきた歴史も知ることができました。
大判の鋳造は1862年(文久2年)まで、小判の鋳造は1867年(慶応3年)まで行われ、万延大判・小判が日本最後の大判小判となりました。その後、大判小判は明治維新後の1874年(明治7年)、古金銀の流通が停止したことで、廃貨となりました。
同時に、他の貨幣と共に、新貨幣の円、銭、厘との交換が行われました。大判小判について購入や売却をする場合は、素材である金や銀の含有量や、種類によって値段が大きく異なるので、その価値を見極める専門家が在籍する販売店に行くことをおすすめします。
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