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怠惰王!?チャールズ2世の治世とイギリス金貨

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怠惰王!?チャールズ2世の治世とイギリス金貨

アンティーク金貨の歴史・17世紀後半のイングランドにはどのような金貨があるのでしょうか?。日本は江戸第4代徳川家綱将軍時代、イギリスはステュアート朝3代目チャールズ2世が国王として統治しました。
ピューリタン革命で一度潰えた王政がなんと再び復活、その際、ブレダ宣言とともに国王となったチャールズ2世。第2次英蘭戦争でオランダと戦い領土を拡大するも、ペストの流行など戦争での被害や財政対策におわれます。
約25年、主政権が変わりつつも議会主体に政治を行うチャールズ2世。
しかしながら専制政治はしないとしながらも、カトリックを擁護するチャールズ2世はピューリタン派議会とは対立が多かったようです。チャールズ2世の生涯とコインのお話です。

チャールズ2世の誕生は?チャールズ1世の次男として1630年に生まれる

セント・ジェームズ宮殿

チャールズ2世は1630年、チャールズ1世とヘンリエッタ・マリア王妃(ランス王アンリ4世の娘)の次男として、セント・ジェームズ宮殿で誕生しました(兄のチャールズ・ジェームズは死産だったため、実質的な跡継ぎはチャールズになります)。

チャールズ1世とヘンリエッタ・マリアの間には、チャールズの他に長女メアリー・ヘンリエッタ(後にオランダ総督・オラニエ公ウィレム2世妃ジェームズ2世と結婚)、ジェームズ(三男、後のイングランド王ジェームズ2世)、エリザベス(次女、14歳で夭折)、アン(三女、3歳で夭折)、キャサリン(四女、死産)、ヘンリー(四男、20歳で夭折)、ヘンリエッタ・アン(五女、後にオルレアン公フィリップ1世と結婚)が誕生しました。

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宗教自由を求めて!ピューリタン革命勃発、フランスへの亡命生活

イギリスでは1642年、チャールズ1世の専制政治に対する不満が引き金となり、ピューリタン革命が発生しました。この革命によってチャールズは亡命生活を余儀なくされることになります。
1646年に母たちとともにフランスに亡命しますが、1648年には姉のメアリー・ヘンリエッタの夫、ウィレム2世を頼りオランダのハーグ移り住みます。
その間に国内に留まっていた父のチャールズ1世は処刑(1649年1月30日)され、オリバー・クロムウェルが率いる議会がイングランド共和国を樹立しました。イングランド共和国は親密だったオランダ連邦議会に圧力をかけ、チャールズたちは再びフランスへ移ることになったのです。

イングランド共和国が誕生したとは言え、イギリス情勢は不安定でした。ピューリタン革命に反対するスコットランドは、チャールズをスコットランド王として支持することを宣言、それを受けてチャールズは1649年6月、スコットランドに入ります。1651年1月1日に、スクーンで正式な戴冠式を挙げることに成功したチャールズでしたが、スコットランド軍は侵攻してきたクロムウェル軍に敗北、再びフランスに亡命することになりました。

この頃のチャールズは、1650年のウィレム2世の死に加え、頼りにしていたメアリー・ヘンリエッタが、オランダから国外退去を受けるなど、窮地に追い込まれていました。
さらにフランスが、フランス・スペイン戦争でイングランド共和国と手を結ぶと、チャールズはドイツのケルンに逃れ、そこで亡命宮廷を構えることとなりました。
チャールズの亡命生活はまだ続き、1656年には同盟を結んだスペインのブリュージュ、そしてブリュッセルと移動します。

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独裁政治で締め付け強すぎた?共和制衰退、チャールズ2世、ブレダ宣言のもと王政復古!

チャールズ2世

ウィキペディア(Wikipedia)より画像引用

王位復帰の可能性を模索するチャールズでしたが、やがて契機が訪れます。1658年、クロムウェルが亡くなり、息子のリチャード・クロムウェルが後を継ぎますが、政府に対する強い反発を抑えきれずに、あっけなく辞任してしまったのです(1659年)。亡きクロムウェルは、政権掌握後、厳格な軍事独裁を行ったため、多くの市民から反発を受けてきたのでした。
事態収束に乗り出したスコットランド駐留軍の司令官、ジョージ・マンクは、1660年3月16日に長期議会を解散させることに成功します。長老派と王党派は、革命関係者の大赦、土地所有権の保護、軍隊給与の支払い保証、信仰の自由などを条件に(ブレダ宣言)、チャールズの王政復帰に同意しました。
こうして1661年5月29日、チャールズはロンドンのウエストミンスター寺院にて戴冠式を行い、イングランド王・チャールズ2世となったのです。

チャールズ2世の即位は国民に熱狂的に受け入れられた反面、クロムウェルは王を殺した罪人として、貶められました。戴冠式と同じウェストミンスター寺院に埋葬されていたクロムウェルの遺体は、戴冠式と同じ日、公衆の面前に晒しものとされたのです。

王政復古後の議会は、従来の上院(貴族院)・下院(庶民院)が復活しますが、「騎士議会」と呼ばれたように、選出された507議員の殆どは旧国王派で、この結果、カトリックと非国教徒プロテスタントは虐げられるようになります。

ギニー金貨、最初の発行はチャールズ2世!

チャールズ2世の統治時代1663年から発行されたイギリス通貨、ギニー金貨。アフリカのギニアで産出した金で造った金貨のためこの名前がついたことは有名ですね。
ギニー金貨はチャールズ2世時代から、1817年に貨幣法のもとソブリン金貨にかわるまで発行されました。ジョージ3世国王時に金貨がきりかわりました。チャールズ2世のギニー金貨の表面は右向きの肖像で裏面は紋章を描いた4つの盾と王冠になります。
チャールズ2世のギニーはヤングとオールドタイプがあり、象、象と城、無がそれぞれにありました。中でも5ギニー金貨は当時一番高い額面の金貨で重さは約40gもあるコインでした。今日のアンティークコインオークションでも中々おめにかかることのない希少金貨の一つです。

1661年には戴冠メダルが発行されました。王冠を頭上にいただいたチャールズ2世がデザインされています。こちらはイギリス造幣局の彫刻家トーマス・サイモンによって作成されました。

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ポルトガルから嫁いだカタリナ王女はカトリック!そのため国民にはあまり支持されず。

チャールズは1662年、ポルトガルのジョアン4世の娘、カタリナ王女(キャサリン・オブ・ブラガンザ)と結婚、ハンプトン・コート宮殿に居を構えます。
キャサリンが持参金として持ち込んだインドのボンベイ(ムンバイ)や北アフリカのタンジールは、イングランド領となりました。
キャサリンは熱心なカトリックであったため、イングランド国教会の典礼だった戴冠式を拒みますが、この行動は市民に不評であると同時に、国教会信徒の議員たちの反発も買いました。

チャールズ2世とキャサリンの間に子供はいませんでしたが、チャールズ2世には結婚前から何人も愛人がいて、結婚後も複数の女性を愛人として囲っていました。
愛人たちが産んだチャールズ2世の子供は、認知されているだけでも14人いて、彼らに大盤振る舞いするその姿は、「陽気な王様(Merry Monarch)」とあだ名されるほどでした。ちなみに子どもたちは庶子のため、王位継承権は与えられていません。

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チャールズ2世、カトリック復興をのぞむも、国の教会化を推進する議会と対立!

王政復古後しばらくは、チャールズ2世と議会は協力的で、ペストの大流行(1665年)やロンドン大火(1666年)といった大問題に共に取り組む姿勢が見られました。
しかし、両者の間には次第に溝が深まっていきます。チャールズ2世の治世は、イギリスのカトリック化を目指すチャールズ2世と、国教会化を推進する議会との対立構造だったと言っても過言ではありません。

第二次イギリス・オランダ戦争(1665年 - 1667年)の失敗で失脚したクラレンドン伯の後には、チャールズ2世の側近の5人:クリフォード男爵(C)、アーリントン伯(A)、バッキンガム公(B)、アントニー・シャフツベリ伯(A)、ローダーデイル公(L)が政権を握ります(1667年)。
この政権は、それぞれの頭文字を取ってキャバル(CABAL)政権と呼ばれました。CABAL政権時代、チャールズ2世はカトリック教会の復活に動き、1670年には、フランスのルイ14世と「ドーヴァーの密約」を結びます。フランスの援助を得たいチャールズ2世と、オランダ征服のためにイギリスの援助が必要だったルイ14世との間に交わされたこの密約には、チャールズ2世と、ジェームズのカソリックへの改宗という約束も含まれていたということです。

チャールズ2世の親カソリック姿勢や内政・外政の失敗などでCABAL政権が失脚すると、1673年にダンビー伯政権が誕生します。しかし、新政権誕生後もチャールズ2世と議会の溝は、埋まることはありませんでした。
イギリス国教会の信徒が多い議会は、1673年に審査法を制定しますが、これは官吏に国教徒以外は採用しないという法律です。
この法律は、1672年、第3次イギリス・オランダ戦争の開始にあたり、「非国教徒に対する抑圧法の非適用と信仰の自由の保障」という、チャールズ2世の信仰自由宣言に、議会が猛反発するかたちで制定されました。また、1679年に制定された人身保護法は、国王による反対派の弾圧を防ぐため、不当な逮捕・投獄を禁止しています。

CABAL政権の一員だったシャフツベリ伯ら地方派が王位排除法案を提出(1679年)、議会は混乱を極めました。
この頃王位継承を認めるトーリー党と、認めないホイッグ党という2つの政治グループが誕生しましたが、ホイッグ党の反カトリック勢力が優勢になると、ジェームズは1679年1月24日に騎士議会を解散させ、総選挙を行いました。
しかし、解散後の選挙でホイッグ党が圧勝するなど、その後も不利な立場が続いたため、崩御するまで1度も議会が開かれることはありませんでした。

議会は開かれることがなかったものの、チャールズ2世はルイ14世の資金提供や税収をもとに政治運営を続け、公職にトーリー党員を任命するなど次第にトーリー党の勢力を築いていきます。
また、ブリュッセルに亡命していたジェームズを呼び寄せ、彼の復権も実現させています。

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崩御前についにカミングアウト!議会とバランスを。治世のチャールズ2世

チャールズ2世は1685年2月、ホワイトホール宮殿で心臓発作のため倒れ、回復することなく54歳で崩御しました。
先にも述べましたが、多くの愛人がいてその間の子供もいましたが王妃との子どもは居ません。
そのため弟のジェームズ2世に治世は引き継がれていきます。
チャールズ2世はカトリックへの改宗を伝えたのは息を引き取る前だったそうです。
ちなみに怠惰王といわれるゆえんですが、議会にまかせっきりで祭り事にあまり関心がなかったことからこのような異名がついたようですが、君臨しても統治せずの精神で議会に任せていたとう見方もあるようです。

宗教を巡って対立していたチャールズ2世と議会の構造は、その後ジェームズ2世の治世にも引き継がれていきました。ジェームズ2世の新カトリック政策の反発はやがて反乱となり、名誉革命へと発展、ジェームズ2世は即位後わずか3年でその地位を追われることになったのです。

チャールズ2世の生前、トーリー党と、ホイッグ党が誕生しましたが、トーリー党は現在の保守党、ホイッグ党は現在の労働党にそれぞれつながっていきます。

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